薬害エイズ
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薬害エイズ事件(やくがいエイズじけん)は、1980年代血友病患者に対し、加熱処理をせずウイルスを不活性化を行わなかった血液凝固因子製剤(非加熱製剤)を治療に使用したことにより、多数のHIV感染者およびエイズ患者を生み出した事件である。非加熱製剤によるHIV感染の薬害被害は世界的に起こったが、日本では全血友病患者の約4割にあたる1800人がHIVに感染し、うち約600人以上がすでに死亡しているといわれる。目次

1 概要

2 民事裁判

3 刑事裁判

3.1 帝京大学ルート

3.2 ミドリ十字ルート


4 諸外国の事例

5 検証と教訓

6 関連項目

7 脚注

8 外部リンク

概要

感染の原因は、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)に感染したと推定される外国の供血者からの血液を原料に製造された血液凝固因子製剤を、ウイルスの不活性化を行なわないままに流通させ、治療に使用したことである。後にウイルスを加熱処理で不活性化した加熱製剤が登場したため、従前の非加熱で薬害の原因となった物を非加熱製剤と呼ぶようになった。HIVに汚染された血液製剤が流通し、それを投与された患者がHIVに感染して、後天性免疫不全症候群(AIDS)を発症したことから、多数の死者を出した。

日本においても、非加熱製剤によるエイズ被害が発生し、厚生省不作為が問題視された。しかしエイズが感染後に、長期の潜伏期間を経て高確率で発症することが明らかになったのは、1980年代の後半以降であり、1986年から1987年頃までは、専門家の間でも抗体陽性者の発症率は低いとする見解もあった[1]

1984年6月まで、厚生省生物製剤課長を務めた郡司篤晃(ぐんじ あつあき)は、2005年12月、熊本市で開催された第19回日本エイズ学会学術集会・総会のシンポジウムにおいて、次のように発表した[2][3]

1983年当時、献血日本赤十字社が独占的に取り扱っており、血液分画製剤として期限切れの全血製剤を原料にしたアルブミンしか製造していなかった。

濃縮製剤は多人数の血漿を1つの窯で処理するため感染リスクが高い(血漿提供者のうちの1人でも感染していれば窯全体が病原体に汚染される)。クリオ製剤は少人数の血漿から作るので感染リスクが低い(報道で言われているような原料が日本人だから安全ということではない)。

1983年当時は加熱製剤を作るための原料を確保することが困難だった。

1982年には世界の血漿総量の3分の1以上を日本が一国で消費していた。

1983年の技術で加熱製剤を作るには非加熱製剤と比べて3倍の血漿が必要だった。

1982年当時に血漿を国内自給するためには、採漿量を増やしたり成分献血の導入が不可欠だった。400ml採血基準と成分献血のための採漿基準は1986年(後任の松村明仁の時代)に承認された。


1982年頃から知人を通じてエイズ感染の危険性を知り、1983年6月にエイズ研究班を召集したが、当時の国際的医学的知見は必ずしも定まっていなかった。

エイズの病原体も特定されておらず、検査法も確立されておらず、潜伏期間も長かったため、血液製剤による感染リスクがどの程度あるかについての医学的知見は直ぐには確定しなかった。

1983年5月に発表されたロバート・ギャロの論文では、エイズ病原体はHTLV-I型とされた。HTLV-I型が病原体ならば発症率は極めて低く、濃縮製剤製造過程の凍結処理によりウイルスを死滅させられると予想された。

1984年5月に発表された論文でエイズの真の病原体が同定された。

1984年9月に発表された論文で加熱によるエイズウイルスの不活性化が報告された。

1983年6月の国際血友病学会大会にて血友病の濃縮製剤による治療を変えるべきではない(=クリオ製剤へ戻るべきではない)とされていた。

非加熱濃縮製剤をクリオ製剤に転換すべきとする論文もあったが、反論も多くあった。

日本でエイズ感染の調査が行われたが第2回エイズ研究班会議においてエイズが疑われる症例は1例のみであった。


アメリカが加熱製剤を早期承認したのはB型肝炎対策であってエイズ対策ではなかった。日本ではワクチン等で対応可能と考えられたので、B型肝炎対策を目的とした加熱製剤の早期承認は必要なかった。

いわゆる“郡司ファイル”をまとめたときは専門知識がなくて分からなかったが、血友病の治療としてクリオ製剤への回帰はあり得ないと後で知った。

アメリカにおけるエイズ患者数の増加や加熱製剤の技術開発の状況等を検討した結果、厚生省としても対応を早く行なう方針となり、未整備であった制度の詳細を定めて、1983年の11月に製薬会社に対して説明会を開いた。

『後天性免疫不全症候群の実態把握に関する研究班』(いわゆる、エイズ研究班)の班長であった 安部英(あべ たけし) の裁判の弁護団の武藤春光、弘中惇一郎は次のように主張している[4]

抗体陽性はエイズに対して免疫ができているとする解釈が米国では有力だった。

クリオ製剤は供給が少なく、入手が困難だった。

クリオ製剤は有効成分が薄く、かつ、副作用が強かった。クリオ製剤の副作用で患者が死亡すれば、標準治療から外れた危険な治療を行ったとして医師が逮捕される可能性もあった。

加熱製剤は変性たんぱく質の危険性などが予想されるので、慎重に治験を行うべきだった。

ミドリ十字の加熱製剤開発は遅れていなかった。

一括申請で治験や審査の時間を大幅に短縮した。

1985年4月に世界保健機関(WHO)が、世界各国に対し血友病患者の治療に加熱製剤を使用するよう勧告し、これを受けて松村明仁生物製剤課長(当時)が加熱製剤の早期承認を図る方針を示した結果、加熱第VIII因子製剤が同年7月に加熱第IX因子製剤が同年12月にそれぞれ承認されている[5]

一方で、1983年11月の加熱第VIII因子製剤の厚生省説明会で、第I相試験は省略可能と説明されていたにもかかわらず、安部は、開発が遅れていたミドリ十字に合わせるため、他の製薬会社に第I相試験を指示するなどして、第II相試験の着手を1984年3月まで遅らせるよう『調整』したとされる[6]


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