薬害エイズ事件
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薬害エイズ事件(やくがいエイズじけん)は、1980年代血友病患者に対し、加熱処理をせずウイルスの不活性化を行わなかった血液凝固因子製剤(非加熱製剤)を治療に使用したことにより、多数のHIV感染者およびエイズ患者を生み出した事件である。非加熱製剤によるHIV感染の薬害被害は世界的に起こったが、日本では全血友病患者の約4割にあたる1800人がHIVに感染し、うち約700人以上がすでに死亡しているといわれる。
概要

感染の原因は、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)に感染したと推定される外国の供血者からの血液を原料に製造された血液凝固因子製剤を、ウイルスの不活性化を行なわないままに流通させ、治療に使用したことである。後にウイルスを加熱処理で不活性化した加熱製剤が登場したため、従前の非加熱で薬害の原因となった物を非加熱製剤と呼ぶようになった。HIVに汚染された血液製剤が流通し、それを投与された患者がHIVに感染して、後天性免疫不全症候群(AIDS)を発症したことから、多数の死者を出した。

1981年頃から、米国でエイズの症例が報告されるようになり、エイズ患者の中に血友病患者が高い比率で見られるようになったことから、米国内では、非加熱製剤の安全性が疑問視されるようになった。1983年、日本の厚生省がエイズ研究班(エイズの実態把握に関する研究班)を組織し、エイズ患者の調査を開始した。その研究班の班長には、血友病治療の専門家である帝京大学教授の安部英(あべたけし)が指名された。安部は当初、非加熱製剤の使用禁止を主張していたが、後に非加熱製剤の使用継続を決めた。1982年から1986年までに、米国から輸入されていた非加熱製剤はHIVに汚染されていた。これによって日本国内の血友病患者約5000人のうち、約2000人がHIVに感染、多くがエイズを発症して死亡するに至った[1]

1985年に安全な加熱製剤が承認される。このとき非加熱製剤を製造していたミドリ十字は回収を直ちに行わなかったため、HIV感染がさらに拡大した。後にミドリ十字の三人の経営陣は、加熱製剤の承認後も非加熱製剤の販売を継続し感染を生じさせた責任が問われ、最高裁で有罪判決が確定した(一人は裁判途中に死亡のため公訴棄却)。非加熱製剤の回収を命じなかった厚生省も不作為責任を問われ、担当係長が業務上過失致死起訴、最高裁で有罪が確定した。エイズ研究班の班長であった安部は、自身の患者に非加熱製剤を投与し、エイズを発症、死亡させた責任を問われたが、上告中に死去したため公訴棄却となった[2]

一般的には、加熱製剤の承認等によって、安全な血液製剤の供給が十分可能になった後も、日本国政府による未使用非加熱製剤の回収措置が即座に講じられなかったことが、被害拡大の主因であるとされている[3]
民事裁判

1989年5月に大阪で、10月に東京で後述の製薬会社と非加熱製剤を承認した厚生省に対して、損害賠償を求める民事訴訟が提訴される。その後原告団は早期解決を求め、和解勧告の上申書を地方裁判所に提出[4]。1995年10月、東京地方裁判所大阪地方裁判所は原告一人あたり4,500万円の一時金支給を柱とする第一次和解案を提示したが、厚生省は救済責任は認める一方、加害責任は否定した。

1996年2月9日、厚生大臣菅直人は自身が独自に名付けた通称郡司ファイルが1月26日に自分が探して発見されたことを発表し、2月16日に原告団に謝罪[4]。3月7日、東京・大阪両地裁は発症者に月15万円を支給する第二次和解案を提示し、5社が3月14日に、日本国政府も翌15日に和解受け入れを発表。原告側も3月20日に受け入れを決め、3月29日に両地裁で和解が成立した[4]

この時、製造販売で提訴された製薬会社は、当時のミドリ十字(現在の田辺三菱製薬)と化学及血清療法研究所であり、輸入販売で提訴された製薬会社は、バクスタージャパン(日本トラベノール)日本臓器製薬、カッタージャパンを合併承継したバイエル薬品である。また、カッタージャパンの該当非加熱製剤を発売元として大塚製薬と、同じくバクスター製の同種製品の輸入発売元として住友化学(現在の住友ファーマ)の2社も非加熱製剤を発売していた時期があり、無関係ではなかったが、両社とも提訴されなかった。
刑事裁判

最高裁判所判例
事件名業務上過失致死被告事件
事件番号平成17(あ)947
2008年(平成20年)3月3日
判例集刑集第62巻4号567頁
裁判要旨
HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に汚染された非加熱血液製剤を投与された患者がエイズ(後天性免疫不全症候群)を発症して死亡した薬害事件について,当時広範に使用されていた非加熱血液製剤中にはHIVに汚染されていたものが相当量含まれており,これを使用した場合,HIVに感染して有効な治療法のないエイズを発症する者が出現し,多数の者が高度のがい然性をもって死に至ることがほぼ必然的なものとして予測されたなどの判示の状況があった。このような状況の下では,薬務行政上のみならず,刑事法上も,同製剤の製造,使用や安全確保に係る薬務行政を担当する者には,社会生活上,薬品による危害発生の防止の業務に従事する者としての注意義務が生じ,厚生省薬務局生物製剤課長であった被告人は,同省における同製剤に係るエイズ対策に関して中心的な立場にあり,厚生大臣を補佐して薬品による危害防止という薬務行政を一体的に遂行すべき立場にあったから,必要に応じて他の部局等と協議して所要の措置を採ることを促すことを含め,薬務行政上必要かつ十分な対応を図るべき義務があったもので,これを怠って同製剤の販売・投与等を漫然放任した被告人には業務上過失致死罪が成立する。
第二小法廷
裁判長古田佑紀
陪席裁判官津野修今井功中川了滋
意見
多数意見全員一致
意見なし
反対意見なし
参照法条
?刑法[注釈 1]211条前段
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1985年に帝京大学病院で、非加熱血液製剤を投与された血友病患者が、HIV感染で死亡した事件は『帝京大学ルート』、1986年に大阪府の病院で旧ミドリ十字の非加熱血液製剤を投与された肝障害患者が死亡した事件は『ミドリ十字ルート』とそれぞれ呼称された。

1996年8月から10月に帝京大学医学部附属病院第一内科の責任者だった安部英[5]、ミドリ十字の代表取締役だった松下廉蔵・須山忠和・川野武彦、厚生省官僚だった松村明仁が業務上過失致死容疑で逮捕・起訴された。なお、安部の容疑は、自らが担当した患者にHIVに汚染された非加熱製剤を投与して死亡させたことであり、HIVに汚染された非加熱製剤を流通させたことではない。

この裁判は2000年に、ミドリ十字の3被告人に実刑判決、2001年3月28日、安部英に一審無罪判決、9月28日、松村明仁に禁固1年執行猶予2年の有罪判決が出た。上訴中に認知症を患い2004年から公判が停止されていた安部は2005年4月25日に死去した。

安部に対する無罪判決に対し、医療刑法を専門とする加藤久雄慶應義塾大学教授は、「薬害エイズ裁判無罪判決」と題して、HIV のみならず、薬害の全体像をおさえたうえで、無罪判決を分析し、問題点を鋭く指摘し「裁判所が、森永ヒ素ミルク事件サリドマイド事件など、多くの犠牲を出した医療過誤訴訟の教訓に学ばず、海外の薬害エイズ事件処理も視野に入れていない、と感じた」と感慨を述べた[6][7]

ミドリ十字ルートについて、2008年3月3日、松村に対して最高裁は、一般論として公務員の不作為が服務上の責任や国の賠償責任を超える刑事法上の責任を直ちに生じさせるものではないとしながらも、松村自身が加熱第[因子製剤や加熱第\因子製剤の早期承認を図る方針を示したことを根拠として、「非加熱製剤の継続使用によってエイズを発症させて死亡させる恐れがあることを予見できた」と認定した。

その上で、薬務行政上必要かつ十分な対応を図るべき義務があったとして、1986年1月に日本における販売が開始された加熱製剤の十分な供給量を確保することが可能となったにもかかわらず、非加熱製剤の販売中止と回収の指示を怠った責任を免れないとして上告を棄却した[3]。なお、松村については帝京大ルートについては高裁段階で「無罪」が確定した。

検察フランソワーズ・バレ=シヌシ博士を尋問、調書を作成。同博士は安部が執った判断は妥当な行為(リスクのトレードオフ)だったとし、ロバート・ギャロ博士の調書も安部の判断に対して概ね正当だとしているが、裁判で検察がその調書を出す事は無かった。

1996年8月9日にミドリ十字の当時の取締役に対する株主代表訴訟が起き、2002年4月に和解した。株主代表訴訟の和解条項などに基づき、2006年5月以降社内に調査委員会を設置し、ミドリ十字が当該事件の惹起を防止できなかった原因を調査検討した。その結果、2007年7月9日に薬害事件の再発防止策に関する提言を含む報告書を取りまとめ、提言を受けた改善策と併せて公表した[8]
諸外国の事例


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