薬丸自顕流
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "薬丸自顕流" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年4月)

薬丸自顕流やくまるじげんりゅう

使用武器日本刀
発生国 日本
発生年江戸時代
創始者薬丸兼陳
源流示現流
野太刀の技
主要技術剣術
テンプレートを表示

薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)とは、薩摩藩士・薬丸兼陳(やくまる けんちん)が示現流を修めた後、家伝の野太刀の技を元に編み出した古流剣術である。正式名称は野太刀自顕流。薬丸家伝「野太刀自顕流」が短縮され近代になって薬丸自顕流と称されるようになった。野太刀自顕流(のだちじげんりゅう)、薬丸どんの稽古、薬丸流、または単に自顕流とも呼ばれる。薬丸兼義薬丸兼文は元治元年に『野太刀自顕流掟』を記していることから奥田真夫は「野太刀自顕流」が正式名称であるという。読みが同じな上に、盛んな地域も同じ薩摩のため、しばしば示現流と混同される。
歴史

平安時代の伴兼行が伝えた伴氏家伝の「野太刀の技」が源流とされる。兼行は薩摩に下り、大隅の豪族肝付氏の祖となった。肝付氏の分家に薬丸家があり代々家老を務めたが、また家伝の「野太刀の技」をも伝えたという。これに関して、平安時代に野太刀は存在しないため、家伝の「野太刀の技」とは、陣太刀のような単に長い刀の剣術を指しているか、または薙刀のような武器術のことではないかと考えられている。特に戦国期薬丸湖雲は名将として知られる。肝付氏が島津氏に服属するにあたり薬丸家も島津家の家臣となった。その時の当主・薬丸兼成(壱岐守。湖雲の孫。)は野太刀の技の達人として名高く、耳川の戦いでは初陣の東郷重位(後の示現流開祖)の介添役も務めている。

兼成の孫、薬丸兼陳(如水)は家伝の野太刀の技を学んだが、屋敷が近所で祖父の縁がある東郷重位の門下となった。兼陳の示現流は格別の上達を見せ、ついには五高弟の1人に数えられるまでとなった。かつて系譜の上では、この兼陳を薬丸自顕流の流祖としていたが、明治初年に刊行された『三州遺芳』では自顕流に関して薬丸兼武を9代としており、逆算すると兼成が初代となる。

この後、薬丸家は代々東郷家の高弟となり、東郷家が不振の際にも、あくまでも示現流を盛り立てていった。

しかしながら、薬丸家には家伝の野太刀の技があり、代々の薬丸家当主は示現流の影響を取り入れながら徐々に独自の剣術を形作っていった。例えば、現在の薬丸自顕流の稽古の一つ「打ち廻り」は兼陳の孫の薬丸兼慶の考案といわれる。

そして、江戸後期の薬丸兼武(長左エ門)に至りついに示現流より独立し、如水伝あるいはジゲン流(自顕流か?)を称した。このとき、示現流との間で弟子の移動があってトラブルになり、また、島津家の覚えも良くなく、兼武は屋久島へ流刑となった。

子の薬丸兼義(半左エ門)の代に藩よりようやく剣術師範家として認められた。薬丸兼義薬丸兼文は元治元年に『野太刀自顕流掟』を記し正式な文書で初めて流派名を明らかにした。藩主島津斉興は乗り気でなかったと伝えられているにもかかわらず師範家として復活した陰には当時軍制改革の責任者として就任したばかりの家老調所広郷の建議があった。このことは、島津斉彬文書上巻に、“薬丸剣術の採用は調所笑左衛門の取り立てによる”旨があることからも明らかである。天保改革時に磯の別邸で斉興臨席のもと、自顕流が初めて示現流と共に演武をした記録もある。(鹿児島県史料集39 天保改革資料より)兼義は剣名が高く、多くの弟子を育てた。薬丸流は郷中教育に取り入れられ、下級藩士を中心に伝わった。桜田門外の変井伊直弼の首級を取ったのは薬丸自顕流の門弟有村次左衛門である。また、生麦事件で知られる横浜・生麦で島津久光の行列の前を馬で横切ったイギリス人リチャードソンを斬ったのは奈良原喜左衛門である。寺田屋事件で知られる薩摩の尊皇攘夷派と、それを薩摩の公武合体派として制止・鎮武しようとした精忠組も、お互いが薬丸自顕流の門弟達であった。これらの事件が徳川幕府弱体化を更に進める結果となり、明治維新への直接の引き金に関わっている。また、門弟の中から明治維新の元勲が数多く輩出した事もあり、『薬丸どんの剣』として高名になり、「明治維新は薬丸流でたたきあげた」と言われている。明治の後は、郷中が学舎に改称され学舎を中心に教授される。

第二次世界大戦後は、代々薬丸家に伝承した野太刀自顕流も、後継者として期待された第12代薬丸兼吉の長子薬丸兼教が沖縄戦で戦死し、薬丸本家が断絶した。その際に、野太刀自顕流薬丸本家最後の当主である薬丸兼吉は「自顕流宗家は自分までで終わりとしたい」と話していた。しかし戦後の武道人口の減少に対処すべく再度の復興を期して、昭和32年に薬丸兼吉の了解のもと、高弟奥田真夫とその弟子伊藤政夫が中心となって、共研舎に最初の薬丸流門人組織である野太刀自顕流研修会が発足した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:24 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef