薩摩藩の天保改革
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薩摩藩の天保改革(さつまはんのてんぽうかいかく)は、薩摩藩において調所広郷を改革主任として文政11年(1828年)から嘉永元年(1848年)にかけて遂行された藩政改革である。改革は極度の財政難の解決のために島津重豪の命により開始され、重豪の死後は島津斉興の信任を受けて進められた。農民層への収奪の徹底、藩主、藩益第一主義の改革であった等の限界もあったが、財政問題を解決し、後の幕末、明治維新期の薩摩藩の活躍を支える備蓄金を貯えることに成功した。
薩摩藩の特徴と財政難

薩摩藩は鎌倉時代以来の領主である島津家によって統治され、日本国内では辺境に位置しているという地理的条件も加わって、独自の支配構造を持っていた[1]

薩摩藩の独自の支配構造の特徴としては、

幕府を中心とした幕藩体制に順応しながらも、農村部に在住する在郷家臣が存続し続ける等、中世以来の支配構造が温存された点も多く、領内では人的支配、統制が強固に働いていた。また支藩などに対しても強い統制力を加えていた。

全国的に見ると知行制から蔵米支給へと変わっていく中で、薩摩藩は知行制を維持し続けていた。

在郷家臣は農村の実力者として農民に対して強い支配を続けた。その結果、農民の自立度は江戸時代を通じて極めて低く、余剰農作物や特産品等による利潤は、ほぼすべてを在郷家臣層や領主が吸い上げていく構造となっていた。

農民層の自立度の低さに加え、農村における利潤がほぼ武士階級に吸い上げられていたため、領内では自立的商業の発展はほぼ見られなかった。その一方で領主層が主導する長崎、大坂等を舞台とする交易が活発に行われ、その中で藩と結びついた特権商人層が生まれた。

九州は歴史的に外国との交易が盛んであり、諸外国に対する関心度が高かった。中でも薩摩藩は琉球王国を通じた琉球貿易に携わって利益を挙げており、また幕府の禁令にもかかわらず密貿易がしばしば噂されていた。幕末が近づいて幕府の支配力が低下していくと、外国との交易や軍制改革に積極的に取り組むようになり、その取り組みを領主層が主導する交易による利潤が支えた。

などが挙げられる[1][2]

これらの薩摩藩の支配構造によって構造的に生み出されてきたのが藩の財政難である[3]。薩摩藩は江戸時代初期の藩政初期から財政的には恵まれなかったが[4][5]、領主層の支配、統制が強く働き、農民層の自立が阻害される中で農業の生産性は低水準のまま推移し、結果として年貢収入が上がることはなく、慢性的な財政難に悩まされるようになった[6][7]
財政難の深刻化と改革の試み

薩摩藩では年貢の収公率が高く、約三分の二が収公されていたが、その上に困窮していた下級武士の救済策とされていた輪番制の蔵役人による「重み米」、「落散米」と称する収奪が加わり、実質負担率は約80パーセントを超えていたと考えられている[8][9]。その上、農民たちは様々な労役に駆り出されていた[10]。薩摩藩では農村部に暮らす在郷家臣等の厳しい監督指導のもとで農民たちを農作業に従事させていったものの、農業を生業としない武士層の指導指示は農業現場をより混乱させていた[11][12][13]。薩摩藩は農業からの収入増加策として菜種ハゼノキタバコ、そして奄美諸島の砂糖など、商品作物の栽培を強制した上で、強制買い上げを行い藩による専売を行った[14]。しかし農民の自立度が低く、生産性が低い薩摩藩領で商品作物の栽培を強制することは、米の生産に十分な手が回らなくなることに直結した[15]。結果として発生したのが農民の大規模な逃散と広範囲の農村の荒廃であり、薩摩藩の農業生産は深刻な悪循環に陥っていた[16]

薩摩藩の財政難は、木曽三川宝暦治水事業に代表される幕府によって賦課された国役事業や、度重なる藩邸の焼失、安永8年(1779年)に起きた桜島安永大噴火などの災害、そして江戸から鹿児島までの遠距離の往復を要した参勤交代の出費等で拍車がかかった[17][18]

財政難の中で、藩当局は藩士たちの知行高に応じて賦課する出米の賦課率を引き上げていく。これは中位から下位の藩士の生活を直撃して藩政に対する不満を高め、藩士間の内部対立が激化するようになった[19]。そして宝暦治水事業による負担増のあおりを受けて藩財政の窮乏化が進行する中で、18世紀後半の安永から天明期には藩主、島津重豪主導で藩政改革が進められた[20]。重豪の改革はまず徹底した倹約、藩士や領民に対する身分制度の強化、生活様式の統制介入といった引き締め策が行われた[21]


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