薩摩琵琶(さつまびわ)は、盲僧琵琶の系譜をひく語りもの音楽の一ジャンル。 日本中世に生まれた盲僧琵琶は、九州地方の薩摩国(鹿児島県)や筑前国(福岡県)を中心に伝えられたが、室町時代に薩摩盲僧から「薩摩琵琶」という武士の教養のための音楽がつくられ、次第に語りもの的な形式を整えて内容を発展させてきた[1]。絃が4本、絃を支える柱が4本あり、一番上の柱と二番目の柱の間が長く、琵琶の音を大きくするため腹板も大きく膨らんでいるのが特徴。歴史的には、宗教音楽としては、筑前盲僧琵琶が薩摩盲僧琵琶よりも古いが、芸術音楽としては、薩摩琵琶の方が筑前琵琶に先行する[2]。 薩摩琵琶は、晴眼者の琵琶楽としては最古の段階に属し、また、プロフェッショナルによる音楽ではなくアマチュアの音楽としても年代的に古い[3]。道徳歌曲というべき特色を有し、平曲とは異なり、道徳性が文学性に優先する[3]。 薩摩琵琶は、建久7年(1199年)に天台宗の寺院である常楽院19代住職・宝山検校(ほうざんけんぎょう)が、島津氏初代当主・島津忠久に従って薩摩に下り、伊作の田尻中島[注釈 1]に中島常楽院を建て、日夜、盲僧琵琶を弾奏して、仏教の教えを広めたのが起こりと云われている[4]。宝山検校は、『妙音十二楽[5]』という古典音楽を薩摩に伝えたとされており、現在も受け継がれている。 16世紀に活躍した薩摩の盲僧・淵脇了公は、ときの領主である島津忠良こと日新斎の命を受け、各地をまわり敵の動きなどを探り、数々の手柄を立てた[4]。忠良と淵脇は、戦の合間に楽器を改良に取り組み、それまで盲僧琵琶に用いられた琵琶を改造し、武士の士気向上のため、新たに教育的な歌詞の曲、武士の倫理や戦記、合戦物、祝い物などの琵琶歌を新たに作曲して、これらを歌い上げる勇猛豪壮な演奏に向いた構造にしたものである[4]。従来の四絃六柱の琵琶に代わり、四絃五柱の平家琵琶を採用して、その第二絃を省き、盲僧琵琶では柔らかな材を使うことが多かった胴部を硬い桑製に戻し、勇壮で大きな音が出るようにバチも杓文字型から扇子型へと形状が変化したうえで大型化して、バチで叩き付ける打楽器的奏法を可能にしたのが始まりと言われる。これにより、楽器を立てて抱え、横に払う形で撥を扱うことができるようになり、弾奏法も武士好みの勇壮なものになって、胴をバチで叩きつけ風や戦の音を表現する「崩れ」という弾奏法も行われるようになった。 忠良は様々な試みで薩摩琵琶の価値を上げると同時に、歌や舞、音楽や曲を口ずさむことは浮ついており、風紀を乱すとして禁止令を出す。その一方で、侍踊りは歌や舞ではなく、琵琶、天吹は音楽や曲ではないとして、侍踊り、薩摩琵琶、天吹は、武士のたしなみとして奨励された[6]。儒教や仏教などの教えを説いた琵琶歌の「迷悟もどき」や「武蔵野」などは、忠良が作ったと言われている[4]。また、忠良は道徳的な内容を自身が詠った島津日新公いろは歌の要素を盛り込んだ曲を作詞して流行らせるという仕掛けをして、宗教的な用途や、武士道、青少年の教育、士気の鼓舞などのために活用されるようになったと、加治木島津家13代当主・島津義秀は語っている[7][8]。江戸時代には『木崎ヶ原合戦』など合戦を語った曲が作られて流行し、やがて武士だけでなく町民にも広まった。こうして剛健な「士風琵琶」と優美な「町人琵琶」の2つの流れが成立する。江戸時代末期には池田甚兵衛が両派の美点を融合させて一流を成し、以降、これが薩摩琵琶として現在まで続いている。 島津斉彬(なりあきら)は、藩主になり江戸を下るとき琵琶会を催し、薩摩藩士の山本喜左右衛門に「武蔵野」や「小敦盛」を演奏させ、親友で開国派の同士でもある伊達宗城など、様々な友人や知人を招いた。西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、坂本龍馬、木戸孝允、品川弥二郎が出席した薩長同盟の盟約を結ぶ会合は、幕府方の目を盗むため、琵琶会という名目で行われ、琵琶の名手である児玉天南[注釈 2]が「敦盛」、「形見の桜」を演奏した。児玉は、小松帯刀の屋敷で木戸孝允の送別会が催された際にも「天南」を演奏しており、木戸が感激したと云われている。その後、西南戦争に従軍するも田原坂の戦いで負傷して生き残った児玉は、薩摩琵琶の名人と謳われるようになるが、その後も「城山」という曲だけは絶対に演奏しなかったと云われている。西南戦争で西郷隆盛たちが城山に籠城している最中にも、演奏者たちにより琵琶が奏でられている。6歳の時から薩摩琵琶を習い、西郷隆盛、桐野利秋、村田新八、別府晋介の前で弾奏した西幸吉
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歴史