薩土盟約
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薩土盟約(さつどめいやく/さっとめいやく)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年(1867年)6月下旬から同年9月上旬まで結ばれていた、薩摩藩土佐藩の間の政治的提携。薩土連約などともいう。(これより1ヶ月前に、薩摩藩と土佐藩の間で結ばれた薩土同盟に関しては薩土密約の項を参照)
概略

幕府崩壊寸前の時期に政局を主導する15代将軍徳川慶喜倒幕路線の薩摩藩が対立する中で、土佐藩が大政奉還王政復古を通じて、平和的手段で公議政体へ移行すべく提起した連携案に薩摩藩が同調したもの。しかし、両藩の思惑の違いにより実行に移されることなく2か月半で解消された。

※以下、日付はすべて旧暦天保暦)によるものである。
背景徳川慶喜詳細は「四侯会議」を参照

慶応2年(1866年)末に新将軍に就任した慶喜にとって喫緊の課題は、第二次長州征伐の敗戦に伴う幕府の権威低下の回復と、諸外国との間で約束した開港時期西暦1868年1月1日は和暦で慶応3年12月7日にあたる)が間近に迫る兵庫開港問題であった。薩摩藩はこれらの問題の解決を雄藩諸侯の合議で決すべく、小松清廉西郷隆盛大久保利通らが、有力諸侯として知られた伊達宗城(前宇和島藩主)・山内豊信(容堂)(前土佐藩主)・松平慶永(春嶽)(前越前藩主)に働きかけ、これら諸侯を朝廷の名の下に京都に呼び寄せ、島津久光(薩摩藩主島津忠義の父)とともに慶応3年5月、四侯会議として招集させることに成功した。しかし四侯会議は、慶喜の巧みな政局操作と両問題の討議順にこだわる些末な議論に終始したために無力化する。かえって慶喜の主導により5月23日の徹夜の朝議で長州処分問題・兵庫開港問題の勅許が下されることとなり、慶喜の政治力を見せつける結果となったため、久光は大いに不満を抱いた。一方、山内容堂は早くも四侯会議の途中で見切りをつけており、5月22日には帰国願いを提出、27日には京都を発って帰国していた。
薩土討幕の密約中岡慎太郎

土佐藩から四侯会議に参加していた前藩主・山内容堂の不甲斐無さに危機感を感じた中岡慎太郎は江戸藩邸の乾退助に対し書簡を送る。乾はことの重大さに感じ、職を辞して急ぎ旅装を整え、5月18日京都に到着。安芸藩・船越洋之助、土佐藩・福岡藤次、中岡らは討幕の策を練った。5月21日、乾(板垣)退助谷干城らは、土佐脱藩を許されたばかりの中岡慎太郎(変名:石川清之助)の仲介によって、同日夕刻、京都の小松清廉寓居にて、西郷隆盛吉井友実らと薩土討幕の密約(薩土密約)を交わした[1]。当時、山内容堂は、徳川恩顧の立場から公武合体佐幕路線を模索していたが事態の収集に苦慮していた[2]。翌5月22日、山内容堂は、乾退助が薩摩との密約を結んだことの報告を受け狼狽するが、乾は「独断で築地の土佐藩邸に勤王派水戸浪士(中村勇吉相楽総三ら)を匿って保護しており、もはや土佐藩は後戻りできない立場にある」と迫られたため、薩土密約を承認し、乾を土佐藩の軍事の最上席に据え、武器調達と軍制刷新を命じた[3][2]
薩摩藩の動向島津久光

四侯会議の失敗は、将軍徳川慶喜の存在を前提としながらも、諸侯会議を中心に据えて幕府体制を変革しようとしていた薩摩藩(島津久光)の従来の方針に大いに変更を加えるきっかけとなった。ここから薩摩藩が前年初頭に締結された薩長同盟による長州藩との連携に基づき、慶喜の将軍職剥奪および慶喜を中心とした一会桑権力の打破、さらに最終的には幕府の倒壊までを見据えた武力倒幕路線が登場する。土佐藩の乾退助らと5月21日に締結された薩土密約にもとづき、5月25日、京都薩摩藩邸で行われた重臣会議で、幕府との武力対決路線が承認された[4](ただし、この時期の薩摩藩の武力行使対象に江戸の幕府組織そのものまで考えていたかどうかについては諸説分かれる。脚注[5]も参照)。

6月初め、大久保は鹿児島へ藩主島津忠義および一大隊の上京を求めた[6]。当時、京都の大久保寓居には、同盟中の長州藩士品川弥二郎が政情視察のため居候していたが、そこへ同藩の山県有朋が密かに上京してきたのを受け、6月16日久光は山県・品川を引見し、近日中に西郷隆盛を山口へ派遣する予定であることを告げ、山県に6連発のピストルを下賜[7]。さらに両名に先に山口に帰国して両藩が「連合同心戮力して大義を天下に鳴らさん」との方針を長州藩首脳部へ伝えるように依頼した[8](結果的に薩土盟約の成立によって西郷派遣は中止となり、山県は藩内で面目を失うことになり、一時期奇兵隊本営のあった吉田に引きこもることになる[9])。
土佐藩・大政奉還派の動向

一方、後藤象二郎は、慶応3年正月に同藩脱藩の浪士坂本龍馬と長崎で会談し、坂本から大政奉還論を聞いて共感していた。後藤は容堂の呼び出しを受けると、坂本を伴って6月9日に土佐藩船夕顔号で長崎を出発。(この上京の途中、坂本が後藤に今後の政局の方針を説いたいわゆる「船中八策」を献策したとされる説は後世の創作とする見解が有力[10]

乾退助らが土佐に帰国するのと入れ違いに、6月12日後藤象二郎坂本龍馬が、大坂に到着、翌日には入京するが、すでに容堂は帰国後であった。中岡慎太郎、乾退助らによって薩藩とは討幕の密約を結んだものの山内容堂は徳川宗家への強い恩顧意識があり、心中の揺れ動きの幅が大きく、討幕への意欲が不安定であったため、更に幕府の力を段階的に削ぐための方策として、6月22日(太陽暦7月23日)、京都三本木料亭「吉田屋」において、薩摩の小松帯刀、大久保一蔵(大久保利通)、西郷吉之助、土佐の寺村道成(日野春章)、後藤象二郎、福岡藤次(福岡孝弟)、石川誠之助(中岡)、才谷梅太郎(坂本龍馬)との間で、大政奉還の策を進めるために薩土盟約が締結される。この薩土盟約は、更なる雄藩連合推進のため、同年6月26日(太陽暦7月27日)、長州藩の隣の安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に拡大発展するが、強固なる武力討幕を目指す乾退助へは当初、薩土盟約の存在が伏せられ、また、穏健に将軍家を維持する方策を模索していた、寺村道成後藤象二郎へは反対に薩土討幕の密約の存在が伏せられていた[11]
薩土盟約の締結坂本龍馬

6月13日後藤は入京すると容堂の意を体して、17日京都藩邸にて今後の方策に関する「大条理」(すなわち大政奉還論)を在京藩首脳である寺村道成(左膳)真辺正心(栄三郎)福岡孝弟(藤次)の3人に説き、賛同を得る[12]。同日、後藤は伊達宗城にも内意を伝えたが、宗城は大政奉還論は時期尚早として難色を示し、後藤の意を小松・西郷に伝えた。その前日、上述のごとく長州藩の品川・山県に武力倒幕の決意を伝えていた薩摩藩では、この後藤の動きに関心を抱き、いっぽう土佐側でも薩摩藩の倒幕への動きは中井弘を通じて後藤・寺村に情報がもたらされており[13]、薩摩側との交渉を急いでいた。この両者の思惑の一致により、薩摩・土佐両藩での話し合いの場が持たれることになる。

6月22日、三本木の料亭で薩摩藩から小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通、土佐藩から後藤象二郎・寺村左膳・真辺栄三郎・福岡孝弟の両藩首脳が会合し、それに「浪人の巨魁」として坂本龍馬・中岡慎太郎が陪席した[14]。この席において後藤の大条理=大政奉還論を薩摩側の出席者が了解し、その方針に沿って盟約を結ぶことが決定した[15]。すなわち議会政治の採用による新政の開始への手段として大政奉還による王政復古を採択し、武力倒幕を原則回避する方針となったのである。


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