薩土密約
[Wikipedia|▼Menu]
「薩土討幕之密約紀念碑」
密約が締結される前段階として京都「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山区(祇園)密約が締結された場所に建つ石碑。小松帯刀寓居跡(京都市上京区)

薩土密約(さっとみつやく/さつどみつやく)は、江戸時代後期(幕末)の慶応3年5月21日1867年6月23日)に、京都小松帯刀(清廉)寓居[1]京都市上京区)で締結された、薩摩藩土佐藩の実力者の間で交わされた、武力討幕のための軍事同盟で、「薩土同盟」とも呼ばれるが、性質の異なる「薩土盟約」も「薩土同盟」と呼ばれるため区別して薩土討幕の密約ともいう。
概略

薩土密約は、土佐藩士が鳥羽・伏見の戦いに際し参戦する根拠となった密約であり、これを起因として始まった戊辰戦争においても、官軍側の勝利に貢献することになる土佐藩の参戦を確約した軍事同盟である[2]

薩土盟約は土佐藩の公議政体派が大政奉還を通して、温和な手段での同盟を薩摩藩に提起した盟約であり、薩土盟約と薩土密約とは性質が全く異なる[2]
密約締結までの背景
勤皇の誓い

文久2年6月(1862年7月)、乾退助(板垣退助)は、小笠原唯八佐々木高行らと肝胆相照し、ともに勤皇に盡忠することを誓う[3]
長州の動きを洞察

文久2年6月6日(1862年7月2日)付の片岡健吉宛書簡において退助は、長州様には今日発駕の由に御座候。長井雅楽の切腹は虚説の趣に御座候[4]。乾退助
(『片岡健吉宛書簡』文久2年(1862)6月6日付)

と書き送り、国許の片岡に長州藩の動向を伝えている(長井雅楽の切腹は、翌年2月6日)。尊皇攘夷(破約攘夷派)の退助は、幕府専制による無勅許の開港条約をなし崩し的に是認する事に繋がる長井雅楽の『航海遠略策』(開国策)を、皇威を貶めるものと警戒していたと考えられ、同時期にあたる文久2年6月19日(太陽暦7月15日)の長州藩久坂玄瑞の日記にも、 私共一同、長井雅楽を斬除仕度決心仕候。雅楽奸妄弁智、身家を謀り、欺君売国之事、衆目之視る所にて候。此度之如く容易ならざる御耻辱を取らせ、恐多くも朝廷を侮慢し国是を動揺仕らんと相謀候事言語同断に有之申候。 彼罪科、去四月中旬言上仕候事に御座候。十九日後、日々熟慮仕候得共未だ時機を得不申候。 ? 久坂玄瑞

とあり、退助と同様に長井雅楽の『航海遠略策』に真っ向から反対し「朝廷を侮慢している」と糾弾している[5]
土佐勤王党・間崎哲馬と好誼

退助は、この頃既に土佐勤王党の重鎮・間崎哲馬と好誼を結んでいた。間崎は土佐藩田野学館で教鞭をとり、のち高知城下の江ノ口村に私塾を構えた博学の士で、間崎の門下には中岡慎太郎吉村虎太郎などがいた。文久2年9月に退助と間崎が交わした書簡が現存する[2]。愈御勇健御座成され恐賀の至に奉存候。然者別封、封のまま御内密にて御前へ御差上げ仰付けられたく偏に奉願候。参上にて願ひ奉る筈に御座候處、憚りながら両三日又脚病、更に歩行相調ひ申さず、然るに右別封の義は一刻も早く差上げ奉り度き心願に御座候ゆへ、至極恐れ多くは存じ奉り候へども、書中を以て願ひ奉り候間、左様御容赦仰付けられ度く、且此義に限り御同志の御方へも御他言御断り申上げ度く、其外種々貴意を得奉り度き事も御座候へども、紙面且つ人傳てにては申上げ難く、いづれ全快の上は即日参上、萬々申上ぐべくと奉存候。不宣

(文久2年)九月十七日 間崎哲馬
乾退助様

書簡を読む限り別封で、勤王派の重要人物から何らかの機密事項が退助のもとへ直接送られたと考えられている。
青蓮院宮令旨事件

間崎哲馬は、土佐藩の藩政改革を行うため、土佐勤王党が仲介して青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝しようと活動した。12月、佐幕派の青蓮院宮は令旨を発したが、この越権行為が土佐藩主の権威を失墜させるものとして文久3年1月25日(1863年3月14日)に上洛した山内容堂より「不遜の極み」であると逆鱗にふれ、文久3年6月8日(1863年7月23日)、間崎は平井収二郎弘瀬健太と共に責任をとって切腹した。その2ヶ月後、間崎の門下にあたる中岡慎太郎が乾退助を訪問し、のちに薩土討幕の密約を結ぶ端緒となる(詳細は後述)[2]
幕府といえども追討して違勅の罪を問うべき

文久2年10月17日(1862年12月8日)夜、山内容堂の御前において、乾退助寺村道成と時勢について対論に及び、退助は尊皇攘夷を唱える[6]。朝廷の御趣意、御遵奉して攘夷の議に決すべく候ふて、幕府、若(も)し勅命(ちよくめい)遵奉(じゅんぽう)これなき時は、追討して違勅の罪を問ふ可(べ)きなり。乾退助
(『寺村左膳道成日記(1)』文久2年(1862)10月17日條)

文久3年1月4日(1863年2月21日)、高輪の薩摩藩邸で、大久保一蔵(のちの利通)に会う。1月11日(太陽暦2月28日)、容堂に随行して上洛のため品川を出帆するが、悪天候により下田港に漂着する。1月15日(太陽暦3月4日)、容堂の本陣に勝麟太郎(のちの海舟)を招聘し坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議した場に同席。4月12日(太陽暦5月29日)、土佐に帰藩する[7]
乾退助と中岡慎太郎が胸襟を開いて国策を練る板垣退助(1868年撮影)中岡慎太郎(1866年11月24日撮影)

文久3年(1863年)、京都では会津藩薩摩藩が主導権を握って八月十八日の政変が起こり、京から長州藩及び尊攘派の公卿ら(七卿落ち)が追放された。土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、乾退助(板垣退助)は藩の要職を外されて失脚。中岡慎太郎は失脚した直後の乾(板垣)を訪ねた。乾は中岡に「君(中岡)が私に会いに来たのは、私が失脚したから、その真意を探る気になったからであろう。その話に移る前に、以前、君(中岡)は京都で私(退助)の暗殺を企てた事があっただろう」と尋ねた。慎太郎は「滅相もございません」とシラを切ったが「いや、天下の事を考えればこそ、あるいは斬ろうとする。あるいは共に協力しようとする。その肚があるのが真の男だ。中岡慎太郎は、男であろう」と迫られたため、「いかにも、あなたを斬ろうとした」と堂々と正直に打ち明けたところ、乾に度胸を気にいられ「それでこそ、天下国家の話が出来る」と、互いに胸襟を開いて話せる仲となった。その後、二人はお互いの立場を生かして尊皇攘夷を実現させるために、乾退助は藩内から(上から)の活動を行うため土佐藩の要職に復帰、中岡は藩外から(下から)の活動を行うため土佐藩を脱藩して長州へ奔った[2][8]
中岡慎太郎の脱藩

土佐藩を脱藩した中岡は、同年9月、長州藩に亡命する。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となる。また、周防国三田尻都落ちしていた三条実美の随臣(衛士)となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となった[2]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:211 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef