薛延陀
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薛延陀[1](せつえんだ、ピンイン:Xu?yantuo)は、6世紀から7世紀にかけて、中央ユーラシアに分布したテュルク系遊牧民族鉄勒(てつろく)の有力部族のひとつ。その中心氏族は一利咥氏[2]といい、鉄勒諸部の中でも最も勢力の強い部族であった。
目次

1 歴史

2 習俗

3 おもな部族長

4 脚注

5 参考資料

6 関連項目

歴史

薛延陀というのは、もともと薛種族と雑居していた部族が、延陀部族を滅ぼしてできた部族であり、この2つの部族名を合わせて薛延陀部と号すようになった。

大業元年(605年)、鉄勒諸部は西突厥泥?処羅可汗(在位:603年頃 - 612年)の攻撃を受け、特に薛延陀部にいたっては叛乱の疑いがあるとして渠帥など数百人が生き埋めにさせられた。そのため鉄勒諸部は契?部の俟利発俟斤(イルテベル・イルキン Iltabar Irkin:官名)である契?哥楞(契弊歌楞)を易勿真莫賀可汗として貪汗山[3]に割拠したり、薛延陀部の乙失鉢(イシュバラ I?bara)を野咥(也咥)可汗[4]として燕末山に割拠したりし、西突厥に対して反旗を翻した。

西突厥の射匱可汗(在位:612年 - 619年頃)が強盛となると、契?部と薛延陀部は可汗号を辞退してふたたびこれに臣従した。

貞観元年(627年)、陰山以北の薛延陀,回?(ウイグル Uyγur),拔野古(バイルク Bayirqu)などの諸部は相次いで反乱をおこし、その欲谷設(ユクク・シャド:官名)を敗走させた。東突厥頡利可汗(在位:620年 - 630年)は小可汗の突利可汗(テリス・カガン Tolis qaγan)を遣わして、これを討伐させたが、敗北して軽騎で逃げ帰ったので、頡利可汗は怒り、突利可汗を十数日拘束した。

貞観2年(628年)、西突厥で統葉護可汗(在位:619年頃 - 628年)が殺されると、西突厥が大いに乱れたので、乙失鉢の孫の夷男(イネル Inal)は、薛延陀部落7万余家を率いて東突厥に附いた。しかし、東突厥でも頡利可汗の政衰に遇い、夷男はその徒属を率い、東突厥に叛いて頡利可汗を攻め、これを大破した。ここにおいて頡利部諸姓の多くは頡利可汗に叛き、夷男に帰順して共に主に推戴しようとしたが、夷男はあえて即位しようとはしなかった。時に唐の太宗は游撃将軍の喬師望を遣わし、夷男を拝して真珠毘伽可汗(インチュ・ビルゲ・カガン Yin?u bilga qaγan)とし、鼓纛を賜う。夷男はとても喜び、遣使を送って方物を貢納し、牙帳を大漠の北の鬱督軍山(ウテュケン山 Utukan yi?)下に建てた。東は靺鞨に至り、西は西突厥に至り、南は沙磧(ゴビ砂漠)と接し、北は倶倫水に至り、迴?,拔野古(拔曳固),阿跌(エディス Adis),同羅(トンラ To?ra),僕骨(ボクトゥ Boqut),?などの大部落は皆付属した。

貞観3年(629年)8月、夷男はその弟の統特勤(トン・テギン Ton Tagin)を遣わして唐に来朝。太宗は厚く撫接を加え、宝刀及び宝鞭を賜う。この頃より東突厥の権威は失墜し、次々と諸部が離反していった。

貞観4年(630年)、遂に頡利可汗が唐によって捕らえられ、東突厥が一旦滅亡すると、夷男はその部を率いて東の故国へ還り、牙帳(本拠地)を鬱督軍山(ウテュケン山 Utukan yi?)の北、独邏河の南に建てた。東は室韋に至り、西は金山(アルタイ山脈)に至り、南は突厥に至り、北は瀚海(バイカル湖)に臨み、古の匈奴の故地をまるまる我がものとし、20万の兵を擁し、その2人の子である大度設(タルドゥシュ・シャド Tardu? ?ad:官名),突利失(テリス Tolis)を立てて南北部とした。ここにおいてモンゴル高原の所有権は鉄勒の薛延陀部に移る。この年、西突厥で肆葉護可汗(在位:628年 - 632年)が莫賀咄可汗(在位:628年 - 630年)を倒して西突厥を統一すると、大発兵して鉄勒に侵攻してきた。薛延陀部の夷男はこれを迎撃し、逆に肆葉護可汗を破った。

貞観7年(633年)1月、薛延陀部は遣使を送って唐に来朝した。

貞観12年(638年)、夷男の2子は小可汗を拝命し、その勢力を分けることを欲した。一方で唐の朝廷が東突厥の李思摩を立てて可汗とし、その部衆を漠南の地に住まわせた。これによって夷男は李思摩をいまわしく思うようになった。

貞観14年(640年)6月、薛延陀部は唐に遣使を送って求婚した。

貞観15年(641年)11月、夷男は子の大度設に同羅,僕骨,回?,靺鞨,?など20万の兵を率いさせて白道川に駐屯させ、善陽嶺に拠って李思摩の部を撃った。李思摩は唐に遣使を送って救援を請い、太宗は英国公の李勣蒲州刺史薛万徹に歩騎数万を派遣した。12月、白道川を経由して青山に至ったところで、大度設と遭遇し、これを累月にまで追撃した。諾真水に至ると、大度設は振り切れないと知ると、10里にわたって兵を連ねた。薛延陀部は以前、沙鉢羅(イシュバラ I?bara)及び阿史那社爾らを撃ち、歩戦で勝ったことがあったので、その戦法を用いて突厥の兵を撃退した。薛延陀部は勝ちに乗ってこれを駆逐。李勣の兵は防戦し、薛延陀部は1万本もの矢を放ち、唐軍の馬を傷つけた。李勣は騎馬を歩兵に切り替え、長矛部隊を突入させて薛延陀部を潰滅させた。副総管の薛万徹は数千騎を率いて薛延陀部の馬指揮者を捕え、薛延陀部の馬を失わせた。これにより薛延陀部は大敗し、大度設は身一つで遁走した。夷男は東突厥(李思摩政権)と和親を乞い、遣使を送って謝罪した。

貞観16年(642年)、夷男は叔父の沙鉢羅泥孰俟斤を遣わして唐に請婚し、馬3千頭を献上した。太宗はこれを許可して新興公主を娶らせることに決めた。そこで太宗は霊州まで行幸し、夷男と直接会って婚姻を執り行おうと、詔を下して献上品を受領させようとした。しかし、薛延陀部には府庫がなかったので、夷男が急いで配下部族から税を徴収してもすぐに集まらず、また、砂漠を越える途中で水草不足に遭って馬羊の多くが死んでしまったため、納期に遅れてしまった。これによって太宗は霊州への行幸を中止し、議論によって薛延陀との通婚は取りやめとなった。

この頃、李思摩が数回兵を派遣して薛延陀部を侵掠したので、薛延陀部はふたたび突利失を遣わして李思摩を撃ち、定襄で抄掠して去った。これに対し太宗は李勣を派遣して薛延陀部を撃たせた。

貞観17年(643年)閏月、夷男が兄の子である突利失設(テリス・シャド Tolis ?ad:官名)を唐に遣わし、馬5万、牛・駝1万、羊10万頭を献上し請婚してきたので、太宗はこれを許可した。

薛延陀部に帰順していた東突厥の阿史那斛勃が次第に勢力を増していったため、これを危惧した夷男は彼を殺そうと考えた。この事を察知した阿史那斛勃は旧地(金山の北)に逃げ帰り、その地で勝兵3万人を擁し、自ら乙注車鼻可汗と称した。


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