薄熙来
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中華人民共和国政治家薄 熙来薄 熙来
Bo Xilai
2007年
生年月日 (1949-07-03) 1949年7月3日(74歳)
出生地 中華民国 北平市
出身校北京大学
所属政党 中国共産党
(1980年10月 - 2012年9月)
配偶者

李丹宇(1976年 - 1984年)谷開来(1987年 - )
子女

李望知薄瓜瓜
親族薄一波(父)
中国共産党
重慶市委員会書記
在任期間2007年11月30日 - 2012年3月15日
党総書記胡錦濤
中華人民共和国
第2代商務部長
内閣温家宝内閣
在任期間2004年2月29日 - 2007年12月29日
最高指導者胡錦濤
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薄 熙来
各種表記
繁体字:薄 熙來
簡体字:薄 熙来
?音:Bo X?lai
和名表記:はく きらい
発音転記:ポー・シーライ
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薄 熙来(はく きらい、簡体字:薄熙来、英語: Bo Xilai、1949年7月3日 - )は、中華人民共和国政治家国務院副総理などを務めた薄一波を父に持ち、太子党に属する。保守派の旗手として第17期党中央政治局委員兼重慶市党委員会書記を務めたが、薄熙来事件と呼ばれる汚職スキャンダルの摘発により失脚した。同事件は腐敗摘発と共に胡温派との権力闘争に敗北したという面がある。
経歴
生い立ち

1949年7月3日、北平市(現:北京市)で薄一波の次男として誕生する。本籍は山西省定襄県。北京市第四中学校卒業後の1968年1月に就職した。同時期に展開されていた文化大革命では紅衛兵組織「連動」の一員であったが、薄は父の失脚に伴って投獄された(公式履歴では学習班で労働とされている)。1972年より北京市第二軽工業局五金機修工場に勤務。1977年2月、北京大学歴史系世界史専攻に入学[1]。1979年9月、中国社会科学院研究生院(大学院に相当)国際新聞(報道)専攻に入学し、1982年8月に修了して修士号を授与された。
中国共産党入党

中国社会科学院在学中の1980年10月、中国共産党に入党した。修了後の1982年8月には党中央書記処研究室に配属され、党中央弁公庁幹部となる。
遼寧省での活動

1984年10月、遼寧省に転出して同省金県党委員会副書記となる。その後、遼寧省大連市金州党委員会書記、大連市経済技術開発区党委員会書記などを歴任。1988年2月、大連市党委員会宣伝部長兼市党委常務委員となる。翌年3月、大連市党委員会常務委員兼常務副市長に就任。1992年8月、大連市党委員会副書記兼市長代理となり、翌年3月、大連市長に昇格。同月、第8期全国人民代表大会遼寧省代表(議員)に選出。以後、第9期(1998年 - 2003年)・第10期(2003年 - 2008年)と全国人民代表大会遼寧省代表として再選される。1999年9月には遼寧省党委常務委員・大連市党委員会書記兼市長に昇進。大連市長在任中は環境政策に力を注ぐ一方、日本企業など外資を呼び込んで地元経済の発展に力を尽くした[2]2000年8月、大連市長を退き、遼寧省党委員会常務委員・大連市党委員会書記の職に専念する。2001年1月、遼寧省党委員会副書記に就任し、1月10日の同省第9期人民代表大会常務委員会第20回会議において同省副省長・省長代理に選出され、2月24日、正式に遼寧省長となる[3]2002年11月、第16回党大会において党中央委員に選出される。薄はこの年、瀋陽などで暴力を用いて他人の財産を奪い、中国東北部で巨万の富を得た劉湧を拘束し、処刑した[4]。薄は暴力団と民間企業の癒着を許さず、徹底して摘発していき民衆の支持を得た。遼寧省での経験は、積極的な外資導入による経済発展と暴力団に対する厳格な姿勢といった薄の政治姿勢を涵養し、後に赴任する重慶市での施政でも活かされることになる。
閣僚就任

2004年2月29日、経済・貿易を管掌する商務部長(大臣)に就任した。在任中は対外貿易摩擦が激しさを増すなか、繊維製品の輸出について欧州連合との交渉を開始した。
重慶に「独立王国」を築く

2007年10月の第17回党大会で中央委員に再選され、党中央政治局委員に昇格した。同年11月30日には重慶市党委員会書記に任命される。12月29日に商務部長を退任し、2008年3月には第11期全国人民代表大会重慶市代表に選出される。

薄が赴任した重慶市は、1997年に「西部大開発の拠点」とするため4番目の直轄市に格上げされた都市であった。しかしながら、薄が赴任するまでの10年間は外資投資が進展しなかった。2003年までの投資総額は5億ドルに届かず、2003年から2007年の合計もわずか10億ドルだった。ところが、薄が赴任し外資導入に着手すると、2008年の外資の投資額は対前年比170%増の27億ドルとなり、翌年には39億ドルを達成した[5]。薄は外資導入によって年16%を超える超高度経済成長をつくり上げる一方で、低所得者向けの住宅を建造して農村の居住環境を整え、都市と農地が混在する重慶市の特性を生かして発展に導き、重慶の庶民に発展の恩恵を実感させた[6][7]

その一方で貧富の格差が深刻で、腐敗した役人や警察ら権力者が威張り散らし、それに大衆の不満が臨界点に達しつつある重慶社会の危険な現実を的確に把握していた[6]。重慶での政治実績を以て、来る第18回党大会で最高指導部である中央政治局常務委員会入りを目論む薄は、低所得者層に未だ根強い毛沢東の政治手法をまねて民衆の支持を獲得しようとした。「共同富裕」のスローガンを掲げて格差是正や平等・公平をアピールし、民衆をひきつけた。そして、大衆を動員し毛沢東時代の革命歌を歌わせる政治キャンペーン「唱紅」を展開した[6]。「唱紅」の目的は古き良き共産党のアピールであったが、これが思わぬ懐古ブームを巻き起こし、人々から好評を得た[5]。また、2009年6月からは犯罪組織一斉検挙キャンペーンである「打黒」を展開した。同年7月より市公安局などを巻き込んだ大規模汚職事件の摘発に乗り出し、事件の中心人物である重慶市司法局長(公安局前任副局長)の文強を初めとして1500人以上を摘発。この事件の捜査は翌年3月に終了した。薄は成果を強調したが、「行き過ぎだ」、「個人的な人気取りだ」などと批判された[8]。改革派知識人たちは、「打黒」の過程で無罪の者を有罪にしたり、死刑に値しない者も処刑したりするなど、法を無視した捜査に最大の問題があると指摘するが、薄熙来は毛沢東が文革時に実践したように、法やルールより、大衆からの喝采を重視した[6]。薄は「打黒」によって、自らの政敵を大衆の忌み嫌う「腐敗幹部」として徹底的に排除していったが、「打黒」によって地方の利益を壟断する黒社会・地下経済に正面からメスを入れたことで、薄が大衆から大喝采を浴びたこともまた事実である[5]

重慶における薄の施政は、中央の幹部にも好意的に評価する声が多かった。江沢民派(上海閥)の呉邦国(党中央政治局常務委員・全人代常務委員長)、李長春(党中央政治局常務委員)、賀国強(党中央政治局常務委員)や、同じ太子党の習近平(党中央政治局常務委員・国家副主席)などは、薄の施政を重慶モデルと称賛した[5]


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