蕭銑
梁
皇帝
王朝梁
在位期間618年 - 621年11月10日
都城江陵
姓・諱蕭銑
生年天保22年(583年)
没年武徳4年(621年)
父蕭?
蕭 銑(しょう せん)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。後梁(西梁)の宣帝の曾孫にあたり、自立して梁の皇帝を称したが、唐によって滅ぼされた。 蕭?
生涯
大業13年(617年)、岳州校尉の董景珍(中国語版)・雷世猛、旅帥の鄭文秀・許玄徹・万?・徐徳基・郭華、?陽の人の張?らが隋に叛くことを計画して、董景珍を主として推挙した。董景珍は、蕭銑が寛仁大度で武帝の威風があり、蕭氏の中興が反隋の旗印としてふさわしいとして、蕭銑を擁立した。10月19日に蕭銑は梁公を称し、沈柳生を斬ると12月20日に王を称して、鳳鳴と元号を立てた。
鳳鳴2年(618年)には皇帝を称し、江陵に都を置き、百官を置いて梁の旧制にならった。董景珍を晋王に、雷世猛を秦王に、鄭文秀を楚王に、許玄徹を燕王に、万?を魯王に、張?を斉王に、楊道生を宋王に封じた。隋の張鎮周と王仁寿の攻撃を撃退した。隋が滅ぶと嶺南のィ長真らを降し、林士弘を豫章に破って、西は三峡、南は交趾、北は漢水に至る広大な地域を帰服させ、兵40万を号した。江陵には園廟を復した。岑文本を召して中書侍郎とし、機密を司らせた。楊道生にz州を攻めさせたが、唐のz州刺史の許紹(中国語版)に敗れた。
鳳鳴4年(620年)、唐の趙郡王李孝恭の攻撃を受けて通州・開州を奪われ、東平王蕭闍提を失った。梁の諸将は兵権を専断し、蕭銑は抑制することができなかった。董景珍の弟が将軍となり乱を謀ったが、事前に漏れて処刑された。蕭銑は董景珍を許して長沙から江陵に召還しようとしたが、疑心に駆られた董景珍は李孝恭に降った。蕭銑は張?を遣わして董景珍を攻めさせた。董景珍は功がありながら劉邦に粛清された韓信と彭越の故事を引き合いにして張?を味方に引き入れようとしたが、張?は聞き入れず包囲して、董景珍は脱出を図ったが部下に殺された。蕭銑は張?を尚書令としたが、張?は功をたのんで驕慢となったため、蕭銑は張?を処刑した。蕭銑の外面は寛容だったが、内心は猜疑心深く成功者を妬んだため、大臣や将軍たちの多くは叛いて去り、梁は弱体化した。
鳳鳴5年(621年)、唐の李孝恭と李靖が巴蜀の兵を率いて長江を下り、廬江王李?が襄州を、黔州刺史の田世康が辰州を出て、梁を攻めた。また周法明が唐に降って黄州総管となり、夏口道を抜け、安州を落とした。雷長穎が魯山で降伏した。蕭銑は文士弘を遣わして李孝恭を阻ませたが、清江口に敗れ、多数の戦艦を鹵獲された。宜昌・当陽・枝江・松滋を奪われ、江州で蓋彦挙が唐に降った。李孝恭と李靖が江陵を囲み、蕭銑は各地に救援を求めたが、鹵獲した無人の梁の軍船を浮かべて江陵が既に陥落したように見せる李靖の献策で梁の援軍の行軍が遅れたこともあって援軍は到着せず、10月21日に唐の軍門に下り、ここに梁は滅亡した。蕭銑が降伏した数日後に10万を超える梁の援軍が到着したが、梁の滅亡を知って李孝恭に降伏した。
降伏した蕭銑は「死すべき者は銑のみで、百姓に罪はない。殺掠しないでいただきたい」と李孝恭に言った。長安に護送された蕭銑は高祖李淵に責められたが、蕭銑は「隋がその鹿を失い、英雄が競いあった。銑には天命がなかったために、陛下の虜となった。田横が南面して、漢に仕えるようなことがあろうか」と答えた。屈服しないのを怒った高祖の命により、蕭銑は長安の市で斬られた。
伝記資料
『旧唐書』巻五十六 列伝第六 蕭銑
『新唐書』巻八十七 列伝第十二 蕭銑
【蘭陵蕭氏(中国語版)系図】(編集)
蕭整
南朝斉 蕭雋 蕭? 南朝梁
蕭楽子 蕭副子
(追)宣帝
0蕭承之 蕭道賜