高帝 蕭道成
斉
初代皇帝
王朝斉
在位期間建元元年4月23日 - 建元4年3月8日
(479年5月29日 - 482年4月11日)
都城建康
姓・諱蕭道成
字紹伯
諡号高皇帝
廟号太祖
生年元嘉4年(427年)
没年建元4年3月8日
(482年4月11日)
父蕭承之
母陳道正
蕭 道成(しょう どうせい)は、南朝斉(南斉)の初代皇帝。 蕭道成の一族である蘭陵蕭氏は、東海郡蘭陵県(現在の山東省臨沂市蘭陵県)を本貫とし、前漢の丞相である蕭何の子孫と称した。蕭道成自身は蕭何の24世の孫と称した。高祖父の蕭整の代に華北の混乱を避けて江南に渡り、晋陵郡武進県(現在の江蘇省常州市武進区)に居住するようになった。東晋によってこの地に南蘭陵郡蘭陵県が僑置された。父の蕭承之は南朝宋初に武功があったが、当時の貴族制社会においては軍人は寒門(低い家格の出身者)でしかなかった。 元嘉24年(447年)に雍州刺史の蕭思話の参軍となり、対北魏戦に戦功を挙げた。明帝より驍騎将軍・西陽県侯・南?州刺史に任じられ、淮陰にて北魏に対抗した。淮陰では自費で兵士を集めて勢力を拡大し、一時は明帝に叛乱を疑われることもあったが、明帝が崩御する際に右衛将軍・衛尉に進んだ。 元徽2年(474年)に後廃帝の叔父の桂陽王劉休範の反乱が発生したが、これを蕭道成が鎮圧した。この武功により中領軍となり、禁軍を掌握して独裁体制を築いた。元徽5年(477年)、これに危機感を抱いた後廃帝は蕭道成を誅殺しようと計画したが、これに対して先手を打って後廃帝を殺害、順帝を擁立し、自らは侍中・司空・録尚書事・驃騎大将軍となった。 蕭道成の専横に反対する沈攸之・袁粲・劉秉らが兵を起こすが、これを鎮圧して朝政を掌握。反乱への加担が未遂に終わった黄回とも一旦は和睦したものの、後に息子の黄僧念と共にこれを殺害した。その後も478年11月には皇族の臨?侯劉晃
家系
生涯
即位した高帝は、権力掌握の時期から建国後にかけて南朝宋の皇族を多数殺害した(禅譲した順帝も殺害されている)ために不評を買った。ただし豫州刺史の劉澄之(劉遵考の子)の一族など、 傍流であり武力にも乏しかった事から殺害を免れた者もいた[4]。内政面では戸籍の整備を行い部曲(私兵)の制限を行うなどの政策を実施し、自らは倹約に励み、南朝斉は次代の武帝の代まで治世としては小康状態を保った。しかし安定した国情を造出したとは言い難く、南朝斉は23年しか存続しなかった。
妻子【蘭陵蕭氏(中国語版)系図】(編集)
蕭整
南朝斉 蕭雋 蕭? 南朝梁
蕭楽子 蕭副子
(追)宣帝
0蕭承之 蕭道賜
(追)景帝
0蕭道生 (1)高帝
0蕭道成 (追)文帝
0蕭順之
(5)明帝
蕭鸞 (2)武帝
蕭? 長沙王
蕭懿 (1)武帝
蕭衍 臨川王
蕭宏
(6)東昏侯
蕭宝巻 斉皇帝
蕭宝寅 (7)和帝
蕭宝融 (追)文帝
蕭長懋 閔帝
蕭淵明 (追)昭明帝
蕭統 (2)簡文帝
蕭綱 (3)元帝
蕭繹 武陵王
蕭紀 臨賀王
蕭正徳
(3)鬱林王
蕭昭業 (4)海陵王
蕭昭文 (追)安帝
蕭歓 (西1)宣帝
蕭? 哀太子
蕭大器 武烈世子
蕭方等 愍懐太子
蕭方矩 (4)敬帝
蕭方智
豫章王
蕭棟 (西2)明帝
蕭? 河間王
蕭巌 永嘉王
蕭荘