蕭衍
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武帝 蕭衍

初代皇帝
梁武皇帝(国立故宮博物院蔵)
王朝梁
在位期間天監元年4月9日 - 太清3年5月2日
502年5月1日 - 549年6月12日
都城建康
姓・諱蕭衍
字叔達
小字練児
諡号武皇帝
廟号高祖
生年大明8年(464年
没年太清3年5月2日
549年6月12日
蕭順之
張尚柔
陵墓修陵
年号天監 : 502年 - 519年
普通 : 520年 - 527年
大通 : 527年 - 529年
中大通 : 529年 - 534年
大同 : 535年 - 546年
中大同 : 546年 - 547年
太清 : 547年 - 549年
梁武帝梁武帝真像.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。梁書/巻第一 本紀第一 武帝上中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。梁書/巻第二 本紀第二 武帝中中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。梁書/巻第三 本紀第三 武帝下中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。南史/巻六 梁本紀上第六 武帝上中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。南史/巻七 梁本紀中第七 武帝下

蕭 衍(しょう えん、大明8年(464年) - 太清3年5月2日549年6月12日))は、南朝の初代皇帝。
家系

前漢蕭何の子孫と称した南蘭陵郡(現在の江蘇省常州市)の蕭氏(蘭陵蕭氏)の一門であり、南朝斉宗室支族にあたる。父の蕭順之は高帝蕭道成の族弟であり、丹陽尹となった。
生涯
南朝梁の建国

蕭衍は若い頃より文武両面において注目され、文化の中心であった竟陵王蕭子良の西邸にも出入りし、沈約らと共に「竟陵八友」の一人に数えられた。

雍州刺史であった時、暴政を敷いていた皇帝蕭宝巻が蕭衍の長兄の蕭懿(次兄の蕭敷は早世)を誅殺したこともあり、追い込まれた蕭衍は弟の蕭宏蕭偉蕭恢とともに蕭宝融(和帝)を奉じて、皇帝打倒の兵を挙げ、都の建康に軍を進めて蕭宝巻を弑した。彼が代わって擁立した和帝から禅譲を受けて天監元年(502年)に帝位に即き、南朝梁を興した。
治世前半

治世前半、天監年間の武帝は、沈約や范雲に代表される主に名族出身者を宰相の位に就け、諸般にわたって倹約を奨励して、官制の整備、梁の頒布、大学の設置、人材の登用、租税の軽減等の方面において実績を挙げた。また、土断法を実施し、流民対策でも有効的な施策を実施した。
皇帝菩薩

普通元年(520年)に改元した。それ以降は次第に政治的には放縦さが目に付くようになり、それに反比例して武帝が帰依する仏教教団に対しては寛容さが目立ち、また武帝自身も仏教への関心を強めた。

ついには大通元年(527年)以降、自らが建立した同泰寺で「捨身」の名目で莫大な財物を施与した[1]。その結果、南朝梁の財政は逼迫し、民衆に対する苛斂誅求が再現されてしまう。また朱?に代表される寒門出身者を重用したことで、官界の綱紀も紊乱の様相を呈してきた。

ただ、武帝の仏教信仰は表面的なものではなく、数々の仏典に対する注釈書を著し、その生活は仏教の戒律に従ったものであり、菜食を堅持したため、「皇帝菩薩」とも称された[2]。このことは国家仏教的な色彩の濃厚な北朝で用いられた「皇帝即如来」との対比において、南朝の仏教の様子を表す称号として評価されている。

また南朝梁は東南アジア西域諸国・百済との交渉が盛んで、それら諸国からの武帝宛国書では仏教用語を用いて武帝を菩薩扱いし、南朝梁を礼賛していたといわれ[3]、武帝は当時の国際社会において仏教信仰でも高名であった。日本(倭国)へも百済を仲介して影響がある。「職貢図」も参照

大通元年(527年)には曹仲宗・韋放陳慶之らに北伐を命じ、北魏の大軍に勝利した。大通3年(529年)、北魏の北海王であるが南朝梁に亡命してきたため、陳慶之に彼を北魏に送るよう命じ、陳慶之は7000人の寡兵で洛陽を陥落することに成功した。すぐに北魏の爾朱栄に洛陽を取り返されたが、これは南朝で最後の北伐成功(洛陽・長安の二都のどちらかを奪還)になる。

大同11年(545年)6月、陳霸先・楊?・蕭勃らに命じて、万春を建国した李賁を討伐させた。李賁は嘉寧城に逃げた。
侯景の乱「侯景の乱」も参照

太清2年(548年)、東魏の武将侯景が南朝梁に帰順を申し出てきた。武帝はそれを東魏に対抗する好機と判断し、臣下の反対を押し切って侯景に援軍を送り河南王に封じた。しかし、東魏と彭城(現在の江蘇省徐州市)で戦った梁軍は大敗し、侯景軍も渦陽(現在の安徽省蒙城県)で敗れてしまう。

その後、武帝は侯景に軍を保持したまま南朝梁に投降することを許可するが、武帝側近の重臣だった朱?が東魏との講和を主張したことで不信を買って叛乱を起こし、都城の建康を包囲した。

当時建康の外城を守っていたのは、東宮学士?信率いる文武3000人だったが、鉄面をつけた侯景軍が迫ってくると瞬く間に四散してしまい、浮橋を落とすことにも失敗した。侯景軍は宣陽門から、宗室の臨賀王蕭正徳の手引きの下、ほとんど無血で外城の中へと入ってきた。武帝たちは内城に篭り、侯景たちは彼らを包囲しつつ、占拠した東宮でとらえた宮女たち数百人を将兵に分かち与えて、祝宴を始めた。怒った皇太子蕭綱は兵を派遣して東宮を焼いてしまい、こうして南朝数百年で積み上げられた建康の歴史的建造物も、その蔵書も多くが焼けてしまった。

内城攻略戦は、南朝梁の羊侃の健闘により数ヶ月にわたって一進一退の様を呈し、侯景が木驢を数百体作り城を攻めると、羊侃は葦に油を注いで放火してそれらを焼いてしまう有様だった。業を煮やした侯景は、宮城の東西に土山を築くため、建康の住民を平民から王侯まで貴賎の別なく駆り立てて、倒れる者は土山の中に埋められた。しかし、山は完成を見ぬうちに豪雨が降り、崩壊した。

そこで侯景は、今度は奴隷解放令を出し、宮中の奴で降る者はみな良民にすると宣言した。早速、朱?の家の入墨奴隷が反乱軍に降ると、侯景は儀同の官位を与えた。これに感激した奴は馬に乗り錦を着て城中に叫んだという。「朱?は50年も仕官してやっと中領軍になれただけだが、私が侯王(侯景)さまに仕えたら早くも儀同になったぞ!」

3日のうちに侯景軍の兵力は激増し、一方で内城の防御軍は櫛の歯の抜けるように脱走は相次ぎ、ついに太清3年(549年)3月、内城を統率していた羊侃が死ぬと、いよいよ戦況は最終局面を見せた。内城の兵士や立てこもった男女も、体が腫れて呼吸も困難となり、「爛汁、堀に満つる」有様だった。こうした中、侯景は玄武湖の水を堀に注いで水攻めを開始、ついに城は陥落した。

引き立てられた武帝は、侯景と次のような問答を交わした。「江を渡る時、何人いたのか?」「千人です」「では、建康を囲んだ時は?」「10万人です」「今は何人なのだ?」「率土のうち、己の有にあらざるはありません」

そのまま、武帝は黙ってうなだれた。

侯景に幽閉された武帝は、食事も満足に与えられなかった。蜜を求めたが与えられず、飢えと渇きの中で死んだ[4]
後世の評価

北宋司馬光は『資治通鑑』「梁紀」の論賛にて次のように評している[5]。梁の高祖(武帝)が終わりを全うしなかったのはもっともだ。自らの粗食(菜食)を盛徳とし、君主としての道が既に備わって、これ以上加えるものがなく、群臣の諫言はどれも聞くに値しないとした。(…)名は辱しめられ、身は危うく、国は覆り(滅び)、宗廟の祀りは絶え、長く後世に憫笑(哀れだとさげすみ笑われ)された。


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