蕭 綜(しょう そう、502年 - 531年)は、南朝梁の皇族。武帝蕭衍の次男。豫章王。字は世謙。北魏に亡命して名を賛と改め、字を徳文とした。 天監元年(502年)7月、蕭衍の淑媛呉氏
経歴
蕭綜は成長すると、学問にすぐれ、文章を得意としたが、頻繁に馬を駆って夜間の遠出をし、人前で半裸でふざけ回るなどの非行も多かった。徐州にあっては、統治に刑罰を濫用した。武帝の子ではないとの俗説を気にして、曲阿の斉明帝陵を参拝したり、東昏侯の墓を暴いて験を求めたりするうちに、武帝に対する隔意を強めていった。
普通4年(523年)、使持節・都督南??徐青冀五州諸軍事・平北将軍・南?州刺史として出向した。南朝斉の建安王蕭宝寅が北魏にあると聞くと、使者を北魏に送って「叔父」と呼んだりした。普通5年(524年)、鎮北将軍に進んだ。普通6年(525年)、北魏の徐州刺史の元法僧が彭城で梁に降ると、武帝は蕭綜に都督として諸軍を統率させ、彭城に駐屯させた。ときに北魏の軍と対峙すること長く、武帝は兵の疲労を心配して、蕭綜に軍を退かせようとした。蕭綜は江南に帰ると、蕭宝寅に会えなくなることを恐れ、夜間に数騎で出奔し、北魏の安豊王元延明のもとに駆け込んだ。この年の秋に洛陽に入ったが、蕭宝寅は関中にいたため、会うことができず、使者を送ってその顔かたちを聞くのみであった。蕭綜は北魏の朝廷の礼遇を受けて、司空に任じられ、高平郡開国公・丹陽王に封じられた。名を賛と改め、字を徳文とした。
北魏の孝昌3年(527年)、蕭宝寅が長安で反乱を起こすと、蕭賛は連座を恐れて、白鹿山に逃げ込もうとしたが、河橋で捕らえられた。しかし反乱に直接関与していなかったことから、処罰は受けなかった。建義元年(528年)、爾朱栄に従って晋陽に赴き、孝荘帝に召されると洛陽に帰った。永安2年(529年)10月、司徒に転じた。11月、太尉となった。この頃、孝荘帝の姉の寿陽公主を妻に迎えた。永安3年(530年)4月、都督斉済西?三州諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・斉州刺史として出向した。蕭宝寅が捕らえられると、蕭賛は助命を求める上表をおこなったが、聞き入れられなかった。12月、爾朱兆が洛陽に入って、孝荘帝を殺害すると、蕭賛も城民の趙洛周により斉州から放逐された。妻の寿陽公主は捕らえられて洛陽に送られ、爾朱世隆に手籠めにされそうになったが、従わずに殺された。蕭賛は刺史の任を放棄して、出家して沙門となり、長白山に入った。普泰元年(531年)、白鹿山に向かったが、陽平で病にかかり、死去した。享年は30。遺体は王礼で公主とともに嵩山に葬られた。東魏の元象元年(538年)、遺体は盗まれて江南に送られ、武帝は子として蕭氏の墓に葬った。
子の蕭直が南朝梁に残されており、永新県侯に封じられた。
伝記資料
『梁書』巻55 列伝第49
『南史』巻53 列伝第43
『魏書』巻59 列伝第47