蕭?
後梁→隋→唐
蕭?(上官周『晩笑堂竹荘画伝』より)
王朝後梁→隋→唐
家名蘭陵蕭氏
字時文
官職金紫光禄大夫
諡号貞褊公
生年天保14年(575年)
生地江陵
没年貞観22年6月20日
(648年7月19日)
没地同官県玉華宮
父親明帝
母親張皇后
后妃独孤氏
子女蕭鋭
蕭 ?(しょう う)は、後梁の皇族で、隋から唐にかけての政治家。字は時文。唐の凌煙閣二十四功臣の一人に挙げられる。 後梁の明帝の八男として生まれた。母は張皇后
生涯
楊広が皇太子となると、蕭?は太子右千牛に任じられた。楊広が即位すると蕭妃が皇后となり、蕭?は外戚として重用された。尚衣奉御となり、左翊衛鷹揚郎将を検校した。風疾に罹って、一時は命も危ぶまれる重体に陥ったが、回復して官職に復帰し、内史侍郎に任じられた。しかし煬帝の意にそぐわない進言を行ったため、遠ざけられるようになった。煬帝が雁門で突厥の始畢可汗に包囲される(雁門事変(中国語版))と、蕭?は「北方民族の風俗では、可敦が軍事の発言権を持っています。義成公主は帝の娘で可賀敦に当たります。使者を立てて彼女を促せば、戦わずに包囲が解けましょう。また陛下は突厥を平定した後も、遼東の問題を片付けなくてはなりません。このことからも下手に戦はできません。願わくは詔を出されて高句麗を赦し、高句麗に突厥を討たせるのがよろしいでしょう」と進言した。煬帝は蕭?の策を容れたため、義成公主の説得を受けた突厥は包囲を解いて去った。しかし煬帝の高句麗征討の意志は固く、「突厥に何ができたものか。蕭?は包囲されている状況に乗じて朕を恐がらせたのだ」と言って、蕭?は河池郡太守に左遷された。
任地で蕭?は勇士を募って山賊を討伐し、降伏させた。また薛挙(中国語版)を攻撃して敗走させた。
長安に入った李淵が恭帝侑を擁立すると招かれて、光禄大夫の位を授けられ、宋国公に封じられ、戸部尚書に任じられた。秦王李世民(後の太宗)が右元帥として王世充の拠る洛陽を攻めると、蕭?はその下で元帥府司馬を務めた。武徳元年(618年)に唐が建てられると内史令に転じ、高祖(李淵)の側近にあって内外の政務の裁決に関わり、「蕭郎」と呼ばれた。蕭?は高祖の過ちについても憚ることなく発言し、信頼された。李世民が雍州牧となると、蕭?は雍州都督となった。武徳4年(621年)に王世充を降伏させると、尚書右僕射に進んだ。武徳9年(626年)、左僕射に転じた。
貞観元年(627年)、特進・太子少師となり、再び尚書左僕射となり、実封600戸を受けた。皇族の封建を支持した蕭?は太宗の前で陳叔達(中国語版)と論争して免職された。1年あまり後、晋州都督として起用された。太常卿・御史大夫となり、朝政に参与した。蕭?は議論が達者であったが、狭量なところも目立ち、不平不満を鳴らすことが多かった。そのため房玄齢・魏徴・温彦博(中国語版)らから議論を排斥されることも多かった。房玄齢らの小さな過失を咎めてかえって失点となり、朝政の権を剥奪され、太子少傅とされた。貞観6年(632年)、特進の位を加えられ、太常卿を代行した。
貞観8年(634年)、河南道巡省大使として出された。貞観9年(635年)、再び朝政に参与した。
貞観17年(643年)、晋王李治(後の高宗)が皇太子となると、蕭?は太子太保・同中書門下三品に任じられた。太宗が高句麗遠征に出立すると、蕭?は洛陽宮の留守を守った。また、蕭?は出家して沙門になりたいとたびたび言っていたが、太宗が出家を許すと、足の病のため謁に入れないと言い出した。怒り呆れた太宗から爵位を剥奪され、商州刺史に左遷された。
貞観21年(647年)、金紫光禄大夫の位を加えられ、宋国公の封を回復した。貞観22年(648年)、太宗の玉華宮への行幸に従い、病のため同地で世を去ると、司空・荊州都督の位を追贈され、昭陵に陪葬された。太常の官は諡を粛と定めたが、太宗は蕭?の性格に似合わないとして、貞褊と改諡させた。
長男の蕭鋭(中国語版)は襄城公主を妻として、太常少卿となった。
伝記資料
『旧唐書』巻63 列伝第13「蕭?伝」