蕭?
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蕭?
後梁
蕭?(上官周『晩笑堂竹荘画伝』より)
王朝後梁
家名蘭陵蕭氏
字時文
官職金紫光禄大夫
諡号貞褊公
生年天保14年(575年
生地江陵
没年貞観22年6月20日
648年7月19日
没地同官県玉華宮
父親明帝
母親張皇后
后妃独孤氏
子女蕭鋭、蕭?、蕭?
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。作者:蕭?

蕭 ?(しょう う)は、後梁の皇族で、からにかけての政治家は時文。唐の凌煙閣二十四功臣の一人に挙げられる。
生涯

後梁の明帝の八男として生まれた。母は張皇后(中国語版)。天保22年(583年)、兄の靖帝より新安郡王に封じられた。隋によって後梁が廃され、同母姉の蕭氏が隋の晋王楊広(後の煬帝)の妃となると、蕭?も同行して長安に入った。蕭?は仏法を好み、文章を得意とした。劉孝標の『弁命論』について、「先王の教えを傷つけ性命の理を迷わせるもの」として攻撃し、『非弁命論』を著して説き、儒者の柳?諸葛潁らを感嘆させた。

楊広が皇太子となると、蕭?は太子右千牛に任じられた。楊広が即位すると蕭妃が皇后となり、蕭?は外戚として重用された。尚衣奉御となり、左翊衛鷹揚郎将を検校した。風疾に罹って、一時は命も危ぶまれる重体に陥ったが、回復して官職に復帰し、内史侍郎に任じられた。しかし煬帝の意にそぐわない進言を行ったため、遠ざけられるようになった。煬帝が雁門突厥始畢可汗に包囲される(雁門事変(中国語版))と、蕭?は「北方民族の風俗では、可敦が軍事の発言権を持っています。義成公主は帝の娘で可賀敦に当たります。使者を立てて彼女を促せば、戦わずに包囲が解けましょう。また陛下は突厥を平定した後も、遼東の問題を片付けなくてはなりません。このことからも下手に戦はできません。願わくはを出されて高句麗を赦し、高句麗に突厥を討たせるのがよろしいでしょう」と進言した。煬帝は蕭?の策を容れたため、義成公主の説得を受けた突厥は包囲を解いて去った。しかし煬帝の高句麗征討の意志は固く、「突厥に何ができたものか。蕭?は包囲されている状況に乗じて朕を恐がらせたのだ」と言って、蕭?は河池郡太守に左遷された。

任地で蕭?は勇士を募って山賊を討伐し、降伏させた。また薛挙(中国語版)を攻撃して敗走させた。

長安に入った李淵恭帝侑を擁立すると招かれて、光禄大夫の位を授けられ、宋国公に封じられ、戸部尚書に任じられた。秦王李世民(後の太宗)が右元帥として王世充の拠る洛陽を攻めると、蕭?はその下で元帥府司馬を務めた。武徳元年(618年)に唐が建てられると内史令に転じ、高祖(李淵)の側近にあって内外の政務の裁決に関わり、「蕭郎」と呼ばれた。蕭?は高祖の過ちについても憚ることなく発言し、信頼された。李世民が雍州牧となると、蕭?は雍州都督となった。武徳4年(621年)に王世充を降伏させると、尚書右僕射に進んだ。武徳9年(626年)、左僕射に転じた。

貞観元年(627年)、特進・太子少師となり、再び尚書左僕射となり、実封600戸を受けた。皇族の封建を支持した蕭?は太宗の前で陳叔達(中国語版)と論争して免職された。1年あまり後、晋州都督として起用された。太常卿・御史大夫となり、朝政に参与した。蕭?は議論が達者であったが、狭量なところも目立ち、不平不満を鳴らすことが多かった。そのため房玄齢魏徴・温彦博(中国語版)らから議論を排斥されることも多かった。房玄齢らの小さな過失を咎めてかえって失点となり、朝政の権を剥奪され、太子少傅とされた。貞観6年(632年)、特進の位を加えられ、太常卿を代行した。

貞観8年(634年)、河南道巡省大使として出された。貞観9年(635年)、再び朝政に参与した。

貞観17年(643年)、晋王李治(後の高宗)が皇太子となると、蕭?は太子太保同中書門下三品に任じられた。太宗が高句麗遠征に出立すると、蕭?は洛陽宮の留守を守った。また、蕭?は出家して沙門になりたいとたびたび言っていたが、太宗が出家を許すと、足の病のため謁に入れないと言い出した。怒り呆れた太宗から爵位を剥奪され、商州刺史に左遷された。

貞観21年(647年)、金紫光禄大夫の位を加えられ、宋国公の封を回復した。貞観22年(648年)、太宗の玉華宮への行幸に従い、病のため同地で世を去ると、司空荊州都督の位を追贈され、昭陵に陪葬された。太常の官はを粛と定めたが、太宗は蕭?の性格に似合わないとして、貞褊と改諡させた。

長男の蕭鋭(中国語版)は襄城公主を妻として、太常少卿となった。
伝記資料

旧唐書』巻63 列伝第13「蕭?伝」


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