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閔帝 蕭淵明
梁
第6代皇帝
王朝梁
在位期間天成元年5月27日 - 9月29日
(555年7月1日 - 10月29日)
都城建康
姓・諱蕭淵明
字靖通
諡号閔皇帝(北斉の文宣帝による)
生年不詳
没年紹泰2年5月9日
(556年6月2日)
父蕭懿
年号天成 : 555年
蕭 淵明(しょう えんめい、? - 556年)は、南朝梁の皇帝。『梁書』では歴代皇帝の伝である本紀は立てられていない。皇帝としての諡号は閔帝(びんてい)であるが、北斉より贈られたものであることから、即位前の爵位より貞陽侯と呼ぶことも多い。唐代に編纂された史書「南史」では、高祖李淵の諱である「淵」の字を取って諱を単に「明」と表記されている。 初代皇帝武帝の兄の長沙王蕭懿の五男で、先代皇帝元帝の従兄にあたる。貞陽侯に封じられていたが、侯景が東魏から南朝梁に降伏してきた際、侯景とともに東魏を攻撃するために派遣された。軍は敗北し、蕭淵明は東魏の捕虜となったが、殺害されることはなく、官位を与えられて抑留され続けた。 その後、侯景の乱により南朝梁は乱れ、侯景は戦死し、侯景を倒した元帝もまた西魏の援助を受けた蕭?に殺された。ここにおいて、元帝の配下の王僧弁と陳霸先は蕭方智を擁立するが、東魏に代わって興った北斉は、西魏から代わった北周に対抗するために、抑留していた蕭淵明を自らの軍とともに皇帝として南朝梁に送り込んだ。兵力に押された王僧弁は彼を皇帝として迎え入れるが、それを認めようとしない陳霸先と対立し、結局王僧弁は陳霸先に攻め殺されてしまう。 北斉軍も既に帰還しており、後ろ盾を失った閔帝は、権力を握った陳霸先により間もなく皇位を廃されて建安公とされ、再び蕭方智が皇帝につけられた。その後、陳霸先は蕭淵明を北斉に送り返そうとしたが、その直前に病没した。【蘭陵蕭氏
生涯
蕭整
南朝斉 蕭雋 蕭? 南朝梁
蕭楽子 蕭副子
(追)宣帝
0蕭承之 蕭道賜
(追)景帝
0蕭道生 (1)高帝
0蕭道成 (追)文帝
0蕭順之
(5)明帝
蕭鸞 (2)武帝
蕭? 長沙王
蕭懿 (1)武帝
蕭衍 臨川王
蕭宏