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蕭 子良(しょう しりょう、大明4年(460年)- 隆昌元年4月14日[1](494年5月4日))は、南朝斉の武帝の次男。字は雲英。文宣と諡される。竟陵王に封ぜられ、浄住子と称した。 南朝斉第一の文人であり、経典や史書・老荘にも通じてしたが、仏典を最も好んで、文恵太子らと共に仏教教理に通暁していた。 永明年間(483年 - 493年)に司徒・尚書令に任ぜられると、鶏籠山の邸に移り、当時一流の文人らを鶏籠山の西邸に招いた。中でも著名な蕭衍・沈約・謝?・王融・蕭?・范雲・任ム・陸?の8人は、「竟陵八友」と称せられる。 常に邸内で斎戒し、朝臣や衆僧を集めた。また、一生涯にわたって厳重に斎戒を守ることを誓願して「浄住子」と自称した。邸内には、古物を蒐集して、広く天下の文章の集録を行なったため、「道俗の盛んなること、江左に未だあらざるところ」と評せられた。文人学者らには『四部要略』1000巻を抄録させ、名僧たちには『経唄新声』を撰述させた。 また、竟陵王自身の仏教信仰を記した書物として『浄住子浄住法門』がある。 この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2022年12月)
生涯
脚注^ 『南斉書』巻4, 鬱林王紀 隆昌元年四月戊子条による。
伝記資料
『南斉書』巻40「竟陵文宣王子良伝」
『南史』巻44「竟陵文宣王子良伝」
参考文献
網祐次
撫尾正信
塩入良道