蕗谷 虹児(ふきや こうじ、蕗谷 虹兒、1898年〈明治31年〉12月2日 - 1979年〈昭和54年〉5月6日)は、挿絵画家、詩人、アニメーション監督。
抒情画という言葉の考案者。童謡・抒情歌「花嫁人形」の作詞者。 1898年 (明治31年) 12月2日、新潟県北蒲原郡水原町 (現・阿賀野市) 生まれ。新潟県新発田町 (現・新発田市) 出身。本名は一男といった。 蕗谷の自伝小説「花嫁人形」「乙女妻」によれば、父親・傳松 (でんまつ) は新潟市 (現・新潟市中央区)、新潟島の信濃川河口付近にあった三傳小路に土蔵と屋敷を構えた北前船の廻船問屋「三傳 (さんでん)」当主の次男であったが、当主が廃業し、新発田町にて活版印刷所を開業。 傳松と職人達は印刷汚れを落とすため、近所の湯屋、広小路の「有馬の湯」に毎晩通うが、番台に座っていた京人形のような美貌の看板娘・新保エツと傳松が恋仲になり、水原町へ駆け落ちする。 1898年 (明治31年) 12月2日、傳松19歳、エツ15歳の時に水原町にて虹児を出産、傳松は活版印刷所を開業するが失敗。 1899年 (明治32年) 3月、貧困の末、新発田町の母親の実家である「有馬の湯」に虹児を預け、父母は新潟市東堀通 (現・新潟市中央区東堀通) の堀に面した二間きりの借家に引越する。父は新聞記者に転身。 1902年 (明治35年) 3月2日、弟 (次男) 虎男が新発田町の実家で生まれる。3月末、父親が実家まで迎えに来て、一家で新潟市東堀通に引越。東堀前通八番町付近には、当時から吹屋小路 (ふきやこうじ) が存在している。 家族4人となり生活に無理が生じ、父が柏崎の新聞社の植字工 (印刷工) に転身。一家で柏崎の裏通りの二軒長屋に一年暮らす。病弱な母親がこの頃から寝たり起きたりの生活となり、虹児が使いをするようになる。しかし、父親の酒癖のために生活は苦しく、柏崎での生活を諦める。 父親は、才能を惜しむ先輩の口添えで再び新潟市営所通 (現・新潟市中央区営所通) の新潟中央新聞に入社。一家で営所通の堀端近くにあった新潟中央新聞社の物置きの中二階に引越。父親がアルコール中毒の禁断症状で苦しむようになるが、この頃の虹児は、貧しい生活でも父親の酒癖さえなければ天国だったという。 1905年 (明治38年) 4月、虹児は西堀小学校 (のちの新潟市立大畑小学校、現・新潟市立新潟小学校) に入学。 1907年 (明治40年) 2月19日、弟 (三男) 春男が生まれる。同年、営所通の家で父の素人ばなれした絵と母が描く「たこ入道」の絵を見る。この時の母による絵の指導がきっかけで虹児は絵を描きはじめる。 1908年 (明治41年) 9月4日、営所通の家に居た一家は新潟大火で焼け出される。新発田町の「有馬の湯」からほど遠からぬ掛倉町 (現・新発田市中央町) 裏路地の七軒長屋に引っ越し、父は新発田町の新聞社に就職。虹児は新発田町の新発田本村尋常小学校 (通称・三ノ丸小学校、現・新発田市立外ヶ輪小学校) に転校する。この頃から竹久夢二の絵を透写する。夢二の画風が母親をイメージさせたためだった。母親は「有馬の湯」の横にある兄嫁の髪結いの店を手伝ったが、胃病で大量吐血し、三か月間床につく。 1911年 (明治44年)、新発田本村尋常小学校を卒業する。父親が新津の「岩越新報」の主筆として迎えられることになり、母親を新発田町に残し、虹児も新津で暮らす。新津尋常高等小学校に入学する。 仕事がうまくいかず、再び父親は新潟中央新聞の後身に迎えられ、主筆となる。一家は大伯父の家があった新潟市白山浦
人物
1911年 (明治44年) 8月17日、母エツは虹児12歳の時に28歳で死去。虹児の記憶に残った若く美しい母への追慕の情が、後の作風に大きな影響を与えた。
母親の死により家族は離散。伯父の世話で新潟市 (現・新潟市中央区) の有名な株式仲買店の新潟支店にて丁稚奉公をするが、翌年突然倒産したため、新潟市 (現・新潟市中央区)古町地域の「鶴木洋服店」で丁稚奉公。その後、父親の紹介で印刷会社「公友社」に移り丁稚奉公、月給で毎晩南画を学ぶ。
1912年 (大正元年)、貧しいながらも恵まれた絵の才能が公友社社長の桜井市作 (後に新潟市長となり爆弾市長と渾名される) の目にとまり、古町地域出身の日本画家の尾竹竹坡 (おたけちくは) の弟子になるよう勧められ、14歳で上京。内弟子として竹坡のもとで日本画を学ぶ。
1913年 (大正2年)、尾竹一門の「第一回八華会展」入選作に選ばれる。浮世絵も勉強するべく、各時代の絵師の絵を模写した。そんな虹児に竹坡は「どうせ美人画を描くのなら、見ていて拝みたくなるような、気品の高い美人画を描きたまえ」とアドバイスしている。
1915年 (大正4年)、新潟市に一時帰郷した際、父親が再婚していながら失職し、多額の借金でいよいよ生活に困窮していた事を知る。父の頼みで借金を返済するため、繁華街の映画館で看板絵師として働く。借金を返済すると、父親の仕事の関係で樺太へ渡るが、それを機に放浪画家の生活を送ることになる。
1919年 (大正8年)、竹坡門下の兄弟子の戸田海笛を頼って上京。戸田海笛の紹介で日米図案社に入社、図案家としてデザインの修行をする。
1920年 (大正9年)、22歳、竹久夢二を訪ねる。夢二に雑誌『少女画報』主筆の水谷まさるを紹介され、蕗谷紅児の筆名により同誌へ挿絵掲載のデビューを果たす。