蔵前国技館
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蔵前国技館
The Kuramae Kokugikan
Sumo Arena

施設情報
用途大相撲興行・イベントホール
収容人数約11,000人
管理運営財団法人日本相撲協会
階数地上2階
着工1949年10月
竣工1954年9月
所在地111-0051
東京都台東区蔵前2丁目1-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分8秒 東経139度47分30秒 / 北緯35.70222度 東経139.79167度 / 35.70222; 139.79167 (蔵前国技館
The Kuramae Kokugikan
Sumo Arena)座標: 北緯35度42分8秒 東経139度47分30秒 / 北緯35.70222度 東経139.79167度 / 35.70222; 139.79167 (蔵前国技館
The Kuramae Kokugikan
Sumo Arena)
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蔵前国技館正門(昭和29年)

蔵前国技館(くらまえこくぎかん、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:藏前󠄁國技館󠄁)は、1984年(昭和59年)秋場所まで、東京での大相撲本場所が開催されていた施設である。外観は純和風で独特の雰囲気のあるものであった[1]
概要

東京都台東区蔵前2丁目1-1に所在していた。最寄り駅は都営地下鉄浅草線蔵前駅で、他に国鉄総武線浅草橋駅も徒歩圏内であった。

1941年昭和16年)に購入していた日本相撲協会の土地に戦後、海軍厚木飛行場格納庫を解体した鉄骨の払い下げを受けて仮設される[2]。収容人員は約11,000人。2階建てで、1階は溜まり席と枡席、2階は椅子席と貴賓席が設けられていた。GHQにより両国国技館接収され、相撲興行が出来なくなった相撲協会は、明治神宮外苑の野天相撲や浜町の仮設国技館などで興行を続けていたが、本格的な興行場所を求めて蔵前に1949年昭和24年)10月23日地鎮祭より建設を開始、翌年「仮設」のまま蔵前国技館として開館した。

蔵前国技館が正式に完成したのは1954年(昭和29年)9月である[3]1952年(昭和27年)9月場所直前の9月19日、享保年間より250年にわたって続いてきた四本柱を撤廃、この場所より吊り天井となり4色(青・白・赤・黒)の房がぶらさげられるようになった。この時は吊り天井に屋根は無く、翌1953年(昭和28年)5月場所からは神明造の屋根(四本柱時代の1931年(昭和6年)5月場所より入母屋造の屋根から改められた)付きの吊り天井となった。これで土俵の雰囲気が変わるのはやむを得なかったが、勝負は見やすくなった。四本柱撤廃と同時期に1909年明治42年)1月の回向院以来、43年間にわたって本場所では絶えていた力士1952年(昭和27年)1月場所より復活、国技館の前は相撲情緒が大いに盛り上がった。またこの場所より弓取式を連日、結びの一番後に行うことになった。

開館式(1954年9月18日)では、千代の山鏡里の両横綱三段構えを行った。1971年(昭和46年)1月の改修落成記念式でも、玉の海北の富士の両横綱がこれを行っている。

この前年(1953年)の5月場所からテレビ中継放送が始まり、1958年(昭和33年)5月場所からは、東西2階席手摺りに自動電光掲示板が新設(十両以上の取組)された。1955年(昭和30年)5月場所(5月24日)10日目には昭和天皇が初めて国技館で相撲を観戦、以後天覧相撲は国技館で行われることとなる。

以上のように相撲史に残る数多くの出来事があり、「時代」「時代」「時代」の各黄金時代の舞台となるなど、蔵前国技館が使用されていた時代は、戦後の大相撲で最も活気ある時代でもあったといえる。

この時代の興行収入やプロレスボクシングなどの使用料収入が両国「新」国技館の建設費用に貢献したと言われている。プロレスでは、プロレスブームの出発点となった力道山木村政彦シャープ兄弟の一戦に始まり、力道山対木村の日本選手権、ミルドレッド・バークらを招いて行われた日本初の女子プロレス大会、アントニオ猪木ジョニー・バレンタイン東京プロレス旗揚げ戦、ジャイアント馬場ボボ・ブラジルの馬場の三十二文ロケット三連発、ザ・ファンクスブッチャーシークの『世界オープンタッグ選手権』最終戦、初代タイガーマスクデビュー戦・タイガーマスク対ダイナマイトキッドなど、昭和プロレスの名勝負の数々が戦われた会場でもある。プロレス最後の興行は1984年8月2日、新日本プロレスのアントニオ猪木対長州力戦であった。猪木が長州からグランドコブラで3カウントを奪い、プロレスでは蔵前国技館最後の勝利者となった。

ただし、閉場直前の1984年6月14日の新日本プロレス「第2回IWGPリーグ戦優勝戦」で、メインの猪木対ハルク・ホーガン戦の試合内容を巡ってファンが暴動を起こし、大時計の破壊や桟敷席の敷物が剥がされたほか、2階通路で火が付けられるなどの損害が出た不祥事が発生している(翌年の両国国技館オープンが予定されていたため、損害請求には至らなかった)[4][5]

ボクシングでもポーン・キングピッチ関光徳の世界フライ級タイトルマッチを皮切りに数多くの世界戦が組まれた。蔵前国技館で初めて世界王座を獲得した日本人選手はファイティング原田で、ポーンを11ラウンドK.O.で退けた後に世界チャンピオン誕生を祝福する座布団の舞が起こった。また、沼田義明小林弘の史上初となる日本人同士の世界戦が行われたのも蔵前国技館である。

なお、当時は現在の両国国技館のようにエレベーター式の昇降型土俵ではなかったため、プロレスやボクシングなどの興行を行うときには、土俵の真上に(土俵に覆い被せる形で)リングを設置していた。そのため、プロレス興行に登場する悪役レスラーが、リングの下から土俵の土や砂を握って、反則攻撃に使うことがお馴染みとなっていた。また、あくまで女人禁制の大相撲の土俵上であるために女子プロレスなど女子が出場する大会には次第に貸さなくなり花束嬢はリングには上がれずレスラーがリングに上がる前に花束を渡していた[6]

1953年(昭和28年)、第1回全日本剣道選手権大会1956年(昭和31年)、第1回世界柔道選手権大会の会場にも使用された。

漫画『あしたのジョー』でも金竜飛戦の会場として描かれたことがあった。

1966年(昭和41年)5月の運営審議委員会において協会は「新国技館」の設計図と模型を運審に提出し、新国技館建設(蔵前国技館の改築)の了承を運審から得たが、具体的な動きにはつながらなかった[7]。1966年5月18日付の『報知新聞』には「蔵前国技館の跡地に収容人数2万2000人の新国技館を建設する」という趣旨の記事が掲載されていたが、この年あたりから相撲人気の陰りが見えて民放テレビ各局が相撲中継から撤退した影響で、結局この「新大国技館構想」は実現しなかった[8]


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