この項目では、日本の令外官の官職について説明しています。その他の用法については「蔵人 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
蔵人(くろうど、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:藏人)は、日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。唐名は侍中(じちゅう)、夕郎(せきろう)、夕拝郎(せきはいろう)。蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれた。また、蔵人は百官名或いは人名の一つでもあり、この場合は「くらんど」と読む。 大同4年(809年)、平城天皇が嵯峨天皇に譲位し、平城上皇として平城京に移り住んだ。この時、後宮の寵妃藤原薬子やその兄藤原仲成も同行したが、薬子が天皇の秘書である内侍司の長官(尚侍)であったため、平安京にいた嵯峨天皇は太政官の議政官への命令文書にあたる内侍宣を出すことができなくなり、その他の政務や宮中の事務においても支障をきたした。その上、上皇も国政に関する命令を出す権限があると考えられていたため(その権限が天皇の権限と同等であったか否かについては諸説ある)、嵯峨天皇と平城上皇・尚侍藤原薬子との対立が深刻化すると、上皇が尚侍を通じて太政官に命令を出す事態も考えられた(後にこの対立は薬子の変へとつながる)。そのため、嵯峨天皇は、新たな秘書役として大同5年(810年)に藤原冬嗣と巨勢野足を蔵人頭に、清原夏野らを蔵人に任命したのがはじまりである。平城上皇側に機密がもれないようにすることも目的であった。 蔵人所はもともと天皇家の家政機関として、書籍や御物の管理、また機密文書の取り扱いや訴訟を扱った。蔵人の「蔵」には後宮十二司の1つである蔵司の意味も含まれているとされている(蔵人所設置当時、尚侍は蔵司の長官である尚蔵の職務を代行していた)。やがて、訴訟には関与しなくなるが、侍従や少納言局や主鷹司など、他の組織の職掌を奪っていき、詔勅、上奏の伝達や、警護、事務、雑務等殿上におけるあらゆる事を取り仕切る機関となった。平安時代中期になると内豎所・御匣殿・進物所
概要
氏蔵人とは、藤原氏であれば、藤蔵人と名乗り、源氏の蔵人であれば源蔵人と名乗る者である。六位蔵人において、極臈、差次の下、新蔵人の上の席次に当たる[2]。
備考
親王家や摂関家にも宮中と同様に蔵人所が置かれていたことが知られている。侍所とともに家政機関を統制し、主従関係を統括していた。摂関家では藤原師実以後、摂関就任時に侍所を蔵人所に改称し、一両年を経た後で侍所と蔵人所を分離するのが慣例であった[3]。
江戸時代には院・女院・儲君である親王(事実上の皇太子)の御所にも蔵人が任じられていたが、いずれも六位蔵人が充てられていた[1]。
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f 林大樹「近世蔵人頭に関する基礎的考察」國學院大学国史学会『国史学』217、2015年/改題所収:「近世の蔵人頭について」林『天皇近臣と近世の朝廷』(吉川弘文館、2021年) 2021年、P44-46.
^ 和田英松著、所功校訂『新訂 官職要解(講談社学術文庫)』(講談社、1983年)212頁参照。
^ 樋口健太郎『中世摂関家の家と権力』(校倉書房、2011年)P114-115.
参考文献
筧敏生「古代王権と律令国家国家機構の再編-蔵人所成立の意義と前提-」(『日本史研究』第344号(1991年)/改題補訂「古代王権と律令国家機構」、所収:筧『古代王権と律令国家』校倉書房、2002年。 ISBN 978-4-7517-3380-6)
和田英松著、所功校訂『新訂 官職要解(講談社学術文庫)』講談社、1983年。 ISBN 4061586211
関連書籍
渡辺直彦「嵯峨院司の研究…附・蔵人所成立の前提」 日本歴史 210号 1965年11月発行
亀田隆之「成立期の蔵人に関する一考察」 日本歴史 263号 1970年4月発行
渡辺直彦「蔵人所別当について」 日本歴史 265号 1970年6月発行
渡辺直彦「蔵人所式 管見」 日本歴史 300号 1973年5月発行