蔵人所
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、日本令外官官職について説明しています。その他の用法については「蔵人 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

蔵人(くろうど、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:藏人)は、日本律令制下の令外官の一つ。天皇秘書的役割を果たした。唐名侍中(じちゅう)、夕郎(せきろう)、夕拝郎(せきはいろう)。蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれた。また、蔵人は百官名或いは人名の一つでもあり、この場合は「くらんど」と読む。
概要

大同4年(809年)、平城天皇嵯峨天皇譲位し、平城上皇として平城京に移り住んだ。この時、後宮の寵妃藤原薬子やその兄藤原仲成も同行したが、薬子天皇の秘書である内侍司の長官(尚侍)であったため、平安京にいた嵯峨天皇太政官議政官への命令文書にあたる内侍宣を出すことができなくなり、その他の政務や宮中の事務においても支障をきたした。その上、上皇も国政に関する命令を出す権限があると考えられていたため(その権限が天皇の権限と同等であったか否かについては諸説ある)、嵯峨天皇と平城上皇・尚侍藤原薬子との対立が深刻化すると、上皇が尚侍を通じて太政官に命令を出す事態も考えられた(後にこの対立は薬子の変へとつながる)。そのため、嵯峨天皇は、新たな秘書役として大同5年(810年)に藤原冬嗣巨勢野足蔵人頭に、清原夏野らを蔵人に任命したのがはじまりである。平城上皇側に機密がもれないようにすることも目的であった。

蔵人所はもともと天皇家家政機関として、書籍御物の管理、また機密文書の取り扱いや訴訟を扱った。蔵人の「蔵」には後宮十二司の1つである蔵司の意味も含まれているとされている(蔵人所設置当時、尚侍は蔵司の長官である尚蔵の職務を代行していた)。やがて、訴訟には関与しなくなるが、侍従少納言局や主鷹司など、他の組織の職掌を奪っていき、詔勅上奏の伝達や、警護事務、雑務等殿上におけるあらゆる事を取り仕切る機関となった。平安時代中期になると内豎所御匣殿・進物所・ 大歌所・楽所・作物所・御書所・一本御書所・内御書所・画所など「所」といわれる天皇家の家政機関一切をも取り扱うようになった。
構成
別当
蔵人所の名目上の責任者。大臣が兼任していた。定員は1名。詔勅を各省に伝達することが役目。江戸時代には任命されなくなった[1]
(とう)
蔵人所の実際の責任者。定員は2名。たいていは非参議四位の大弁または中弁から1名が補任されて「頭弁(とうのべん)」と呼ばれ、もう1名は近衛中将から補任され「頭中将(とうのちゅうじょう)」と呼ばれた。中世には頭のうち1名を「殿上管領」に任じて殿上人の統率をさせたが、江戸時代には任命されなくなった[1]。江戸時代には原則として頭弁は名家、頭中将は羽林家から任じられた(例外として大臣家出身の頭中将が2名いる)[1]
五位蔵人
定員は2名から3名。勅旨上奏を伝達する役目を蔵人頭と受け持つ等、秘書的役割を果たした。弁官衛門権佐を兼任して「三事兼帯」と呼ばれる者もいた。江戸時代には定員は3名とされ、弁官から五位蔵人を経て頭弁に任じられる昇進経路が確立された[1]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:15 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef