?孝勇
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中華民国政治家? 孝勇
1950年
生年月日1948年10月27日
出生地 中華民国 上海市
没年月日 (1996-12-22) 1996年12月22日(48歳没)
死没地 中華民国 台北市北投区
台北栄民総医院
出身校 台湾省立台北女子師範学校附属小学(中国語版)
私立復興中小学(中国語版)
陸軍軍官学校
国立台湾大学
所属政党 中国国民党
配偶者方智怡(中国語版)
親族?介石(祖父)
?経国(父)
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? 孝勇
職業:政治家・実業家
各種表記
繁体字:? 孝勇
簡体字:蒋 孝勇
?音:Ji?ng Xiaoy?ng
ラテン字:Chiang Hsiao-yung
和名表記:しょう こうゆう
発音転記:ジャン シャオヨン
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? 孝勇(しょう こうゆう、1948年民国37年〉10月27日 - 1996年〈民国87年〉12月22日)は、中華民国の実業家、政治家。?経国?方良の三男。同母兄姉に?孝文(中国語版)、?孝武(中国語版)、?孝章(中国語版)、異母兄に?孝厳と章孝慈(中国語版)がいる。?友柏は長男にあたる。
人物

国共内戦中の上海に生まれ、生後間もなく家族とともに台湾への移住を余儀なくされた。

兄たちに比べ謙虚な性格であり、父に最も似ていると言われた。一方で周囲の人間からは、表面上の穏健さとは裏腹な陰湿さを指摘されている。

祖父・?介石の希望に従い陸軍軍官学校に進む。ここでも2人の兄とは違って学校の綱紀を守り成績も優秀だったが、訓練中の負傷が元で学校を離れ、国立台湾大学に進学する。大学では総統の一族ということで、周囲からの注目を集めた。

幼いころから政界の暗部を目の当たりにして育ったこともあり、大学卒業後は実業家の道を選んだ。父・?経国は失望を隠せなかったとされるが、結局は息子の意志を尊重した。もっとも息子の?友柏のように完全に政界との縁を切ったわけではなく、父の希望で中国国民党の中央財務委員にも就任している。実業家としては「総統の息子」というバックボーンとその能力を活かして活躍、政財界の重要なポストを占め、若年ながら高い声望を誇った。

1985年(民国74年)、父の健康状態が悪化すると、財界で長年掛けて築いた地位を捨て父の補佐に当たる。というのも本来後継者候補とされていた2人の兄が、後述するような理由で政界での影響力を失っていたためである。週2回、?孝勇は父に公私各種の報告を行った。?孝勇の権勢は強まり、「影の総統(地下總統)」の異名を取る程であった[1]

1988年(民国77年)1月13日、?経国が77歳で死去すると?孝勇も中国国民党の中央委員に選ばれ、今後も政界で活躍するかと思われたがその直後に突如出国し、カナダに移住した(後にはカナダ国籍を取得している)。

その後、父の後継者でもある李登輝が進めた「一つの中国、一つの台湾」という方針に不満を抱き、1996年(民国85年)に行われた初の直接民選による中華民国総統選挙では白票を投じた。また、新聞に寄稿し台湾による中国統一を主張する新党への投票を呼びかけるなど、活発な政治的活動を行った。しかしこの時、?孝勇はすでにガンに侵されていた。

同年5月、?介石の孫(同じく孫の章孝慈が先に訪中はしていたが桂林の母・章亜若の墓を訪れたとされる[2])として初めて中華人民共和国浙江省奉化市の故地で?家の墓を訪れ[3]、同12月22日食道ガンのため台北の病院でその48年の生涯を閉じた。


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