蔡廷?
1932年撮影
プロフィール
出生:1892年4月15日
(清光緒18年3月19日)
死去:1968年4月25日
中華人民共和国北京市
出身地: 清広東省羅定州
職業:軍人・政治家
各種表記
繁体字:蔡廷?
簡体字:蔡廷?
?音:Cai Tingk?i
ラテン字:Ts'ai T'ing-k'ai
和名表記:さい ていかい
発音転記:ツァイ ティンカイ
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蔡 廷?(さい ていかい)は、中華民国・中華人民共和国の軍人・政治家。国民政府(国民革命軍)の軍人で、粤軍(広東軍)の指揮官。国民革命軍陸軍上将。後に福建事変に参加し、中国国民党革命委員会(民革)に加わるなど、反?介石派の要人となった。字は賢初。 貧農の家庭に生まれ、当初は学を志した。しかし1909年(宣統元年)に広東新軍に参加し、軍歴を開始する。1920年(民国9年)、護法軍政府の鄧鏗・李済深らが率いる粤軍第1師に加入し、ここで軍事訓練、教育を受けた。以後、粤軍の各地での戦いに加わり、蔡廷?は軍功をあげた。 1925年(民国14年)7月に国民政府が広州で成立すると、李率いる粤軍は国民革命軍第4軍に改組される。蔡廷?は、陳銘枢率いる第10師に配属された。1926年(民国15年)7月、中国国民党による北伐が開始されると、蔡は第10師第28団団長に任命される。湖北省での呉佩孚との戦いで軍功をあげ、「鉄軍」と呼ばれた第4軍の一員として高い名声を得た。 民国16年(1927年)に?介石と汪兆銘(汪精衛)が対立すると、当初の蔡廷?は汪を支持し、北伐を続行した。汪も反共に転じると、蔡は葉挺に従って南昌起義には参加している。しかし、蔡はまもなく中国共産党への思想的違和感から離脱し、陳銘枢らの粤軍に再合流した。その後は、陳銘枢に従って?を支持し続け、反?派の軍と戦い、軍功を重ねた。1930年(民国19年)8月、?光鼐
事跡
第19路軍結成
淞滬抗戦上海事変時に前線を視察する蔡廷?
1931年(民国20年)から、第19路軍は江西省などで共産党掃討に参加した。しかし、紅軍の予想以上の戦闘力に苦戦し、損害も大きかった。この時の苦戦から、蔡廷?は共産党との内戦をあくまで継続する?介石の方針に疑問を抱くようになっていく。満州事変が勃発すると、第19路軍は江西省から南京・上海方面へ動員された。
1932年(民国21年)1月、日本軍が上海へ進軍してくると、国民党中央は蔡廷?ら第19路軍に撤退を勧めたが、蔡はこれを拒否する。1月28日より両軍の衝突が開始された。兵力は第19路軍が日本軍の半数の上、日本軍の方が装備・火力で圧倒的に優勢だった。しかし?光鼐・蔡らの指揮の下で第19路軍は懸命に抗戦し、30日以上も持ちこたえた。最後は力尽きて撤退したが、この時の戦いぶりは中国国内から大きな賞賛を受けた(第一次上海事変、淞滬抗戦)。
その後の第19路軍は福建省へ派遣され、再び共産党討伐に当たることになった。?光鼐・蔡廷?は、これを?介石による両軍消耗の謀略と見抜いている。そして、動員に応じつつも、密かに反旗を計るようになった。同年9月、蔡は第19路軍総指揮に就任し、12月に?光鼐は福建省政府主席に就任した。
福建事変宋慶齢との合影
そして1933年(民国22年)11月、?光鼐・蔡廷?ら第19路軍は、李済深・陳銘枢らを擁立して、福建人民政府(中華共和国)を樹立し、反?介石のための独立を行った。蔡は人民革命政府委員、人民革命軍第1方面軍総司令、第19路軍総指揮などの地位に就いた(福建事変)。しかし、?介石の反撃は迅速で、共産党側の猜疑等が原因でこれとの連携も不十分だったため、わずか2か月で福建人民政府は崩壊し、第19路軍も解体された。逃亡した蔡は、その後、欧州へ視察の旅に赴いている。
蔡廷?は、その後も反?介石の政治活動を続行した。