蓮華院誕生寺
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蓮華院誕生寺
左から本堂・五重塔・多宝塔
所在地熊本県玉名市築地2288
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度55分57.6秒 東経130度32分07.5秒 / 北緯32.932667度 東経130.535417度 / 32.932667; 130.535417座標: 北緯32度55分57.6秒 東経130度32分07.5秒 / 北緯32.932667度 東経130.535417度 / 32.932667; 130.535417
山号高原山
宗派真言律宗
寺格別格本山
本尊皇円大菩薩
創建年平安時代末期から鎌倉時代初期。年代は不明。
中興年昭和5年(1930年)
中興川原是信
正式名蓮華院誕生寺
公式サイト蓮華院誕生寺
法人番号6330005004445
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蓮華院誕生寺(れんげいんたんじょうじ)は、熊本県玉名市築地にある真言律宗の寺院。山号は高原山(たかはらさん)で、本尊は皇円大菩薩。寺格は別格本山であり、奈良の西大寺を総本山とする。平安時代後期か鎌倉時代初期に創建され戦国時代に焼失した浄光寺蓮華院の跡地に、皇円から霊告を受けた初代住職の川原是信が昭和5年(1930年)に、蓮華院誕生寺として中興した。檀家はなく、信者や一般の人のために祈祷をする祈祷寺である。

江戸時代に著された肥後の地誌「肥後国誌」には、この地に浄光寺蓮華院があったと記載されているので、寺名はここから蓮華院を取り、また本尊皇円が誕生した地に中興した寺という意味で、蓮華院誕生寺と称している。
所在地中門(延命門)円門(蓮華門)本堂正面五重塔

本院 〒865-0065熊本県玉名市築地2288

奥之院 〒865-0065熊本県玉名市築地1512-77

蓮華院誕生寺は本院と奥之院の2つの寺院から成る。本院は玉名市築地にあり、そこから北に4kmの小岱山中腹に奥之院がある。
住職

初代 川原是信(在職、1930年 - 1977年)1896年生れ

第2代 川原真如(在職、1977年 - 1992年)1926年生れ。佐賀県東妙寺の住職を経て蓮華院誕生寺の住職となる。

第3代 川原英照(在職、1992年 -)1952年生れ。同じく佐賀県東妙寺の住職を経て蓮華院誕生寺の住職となる。

行事

各月13日をご縁日、3日、23日を準ご縁日として、法要が営まれる。法要は僧侶による理趣経の誦唱と真言宗の在家勤行次第を僧侶と信者が誦唱、その後住職の法話が行なわれる。また本尊皇円大菩薩の入定の日6月13日を大祭と定め、12日の夜は奥之院から本院まで信者たちが灯籠をもって行列する「龍火下り」、護摩祈祷などが行なわれ、13日早朝に御遠忌法要が営まれる。

奥之院では毎月一度、五重塔で功徳行が行なわれている。11月3日が奥之院の大祭で、また12月31日の大晦日には大梵鐘を打鐘する除夜の鐘法要が営まれる。
本尊

皇円大菩薩。皇円(こうえん)は、平安時代後期の天台宗の僧侶で実在の人物。没年は嘉応元年(1169年)6月13日。96歳で没したとされるので、生年は承保5年(1074年)か。蓮華院誕生寺では、本尊として大菩薩の尊称を付け、皇円大菩薩と称している[1]

関白藤原道兼の玄孫(孫の孫)、肥後玉名荘築地(ついじ)に生まれた。父は豊前守藤原重兼。幼くして比叡山に登り椙生(すぎう)流の皇覚のもとで出家得度し顕教を修め、さらに密教を成円に学び、二人の名前からそれぞれ一字を取り皇円と称したとされる。比叡山の功徳院に住み、肥後阿闍梨(あじゃり)と称された。浄土宗の開祖である法然は、晩年の皇円のもとで出家得度し弟子となった。

皇円は史才のある学僧でもあり、「扶桑略記」(扶桑は日本の異称)を著している。扶桑略記は日本最初の編年体の歴史書としてよく知られ、神武天皇から堀河天皇までを、主に日本への仏教伝来や発展史、神社寺院の縁起に着目して記述した貴重なものである。

皇円の事績に関する同時代の直接の記録はほとんどなく、鎌倉末期に編まれた法然に関する「拾遺古徳伝」や「法然上人絵伝」に頼らざるを得ない。それらによると、嘉応元年(1169年)6月13日に、遠州桜ケ池に龍身を受けて入定した、つまり身を龍体に変えて池の中で密教の修行に入ったとされる。平安末期に盛んとなった弥勒下生信仰つまり弥勒菩薩釈迦入滅後56億7千万年後にこの世界に現われて三度説法をして衆生を救済するという信仰のために、そのときまで菩薩行をして衆生を救うという願いを立てたものと思われる。遠州桜ケ池は静岡県御前崎市浜岡に現存する直径約200m余の堰き止め湖で、湖畔には瀬織津比詳命(せおりつひめのみこと)を祭神として祀る池宮神社(御前崎市佐倉5162)がある。皇円は神社に祀られているわけではなく、桜ヶ池自体が皇円の修行の場所として神聖視され、水際に皇円阿闍梨大龍神と書かれた祭壇を設けて参拝の場所としている。秋の彼岸の中日には、赤飯を入れたお櫃を池に沈めて奉納する「お櫃納め」の行事が行なわれている。また約10km離れた応声教院(静岡県御前崎市中内田915)には、龍のウロコと称されるものが祀られている。
略年表

永仁6年(1298年)、佐賀県東妙寺
の東妙寺文書に「肥後国浄光寺」の文字が見られる。

天正9年(1581年)、戦国時代の争いで焼失。

昭和4年(1929年)12月10日早朝、川原是信が皇円より「蓮華院を再興せよ」との霊告を受ける。

昭和5年(1930年)3月21日、仮本堂が落成。

昭和12年(1937年)、阿闍梨堂が落成。

昭和15年(1940年)、石造円門が完成。「御願成就 皇紀二千六百年 田中虎吉」の銘がある。皇紀二千六百年は昭和15年。

昭和25年(1950年)、世界平和祈念大願堂(通称「大願堂」で、112畳敷き)が落成。

昭和41年(1966年)、現本堂が落成。

昭和52年(1977年)、奥之院大梵鐘が完成。

昭和53年(1978年)11月3日、奥之院が小岱山中腹に落成。落慶法要。

平成9年(1997年)4月12日、五重塔の落慶法要。

平成17年(2005年)4月10日 - 14日、ダライラマ14世来山。本院で世界平和祈念護摩法要、奥之院で法話会を行なう。

平成23年(2011年)5月23日、南大門が落成。落慶法要及び四天王開眼法要。

平成30年(2018年)5月12日、多宝塔が落成。落慶法要及び五智如来開眼法要。

沿革
創建から焼失まで

玉名市築地の蓮華院誕生寺の地には、中世には浄光寺という寺院が建てられていた。この中世浄光寺については、田邉哲夫の論考があり、現在のところこれが最も信頼できる研究であり、本稿もこの研究に多くを依っている[2]。肥後國誌によると、築地村の関白屋敷や浄光寺蓮華院跡の項に、平重盛が浄光寺を建立し、さらに父母の滅罪のため2基の五輪塔、南大門、尼寺妙性寺も建立したとある[3]。平重盛は清盛の嫡男で、保延4年(1138年)生れで治承3年(1179年)に42歳で没している。肥後國誌どおりであれば、平安末期の建立となるが、証拠になる当時の文書は何も残されていない。

現存する最も古い資料は、鎌倉時代の永仁6年(1298年)に書かれた東妙寺文書である。佐賀県東妙寺は勅願寺で鎌倉時代の創建であるが、東妙寺の唯円が殺生禁断の宣旨を願い出た文書の中に「肥後国浄光寺は沙門惠空による私建立の寺院なり[4]。勅願に非ずと雖も、已に宣旨を下され、殺生を禁断せられ畢んぬ。」とある[5]。つまり、永仁6年には玉名の浄光寺は既に存在していたということである。鎌倉時代の東妙寺文書に惠空が私的に建立したと書かれている肥後国浄光寺と、江戸時代の肥後國誌に平重盛が建立したと書かれている浄光寺蓮華院が、同じ寺かどうかは明らかではない。しかし、寺名は同じであることから、重盛建立の浄光寺を、惠空が継承したことも推測できる。いずれにせよ、浄光寺が平安時代末期から鎌倉時代初期の創建であることは推測できる。

浄光寺の名は、奈良・西大寺の鎌倉時代の古文書にも出ている。ひとつは「西大寺諸国末寺帳」の永享8年(1436年)以降の記録に、「築地浄光寺」の文字が見られる[6]。また「西大寺坊々寄宿諸末寺帳」[7]の中にも同じく寺名が書かれており、さらに「西大寺本末寺衆首交名」の中の「西大寺光明真言結縁過去帳」[8]にも、正応3年(1290年)から文明10年(1478年)まで肥後浄光寺僧侶のリストが書かれている。このことから、鎌倉から室町時代にかけて浄光寺が、存続していたことは明らかである。

中世の浄光寺については、昭和30年代に行なわれた、現在の蓮華院誕生寺の本堂建設に伴う発掘調査で、懸け仏、陶器、瓦などが出土している。おそらく浄光寺の本堂はこの附近だったと思われる。現在これら出土遺物は蓮華院誕生寺に保管・展示されており、平成20年玉名市指定文化財に指定されている。

戦国時代になると、激動する戦乱の世となり、浄光寺を取り巻く環境も大きく変わったと思われる。江戸時代には浄光寺は存在していないことから、焼失したとしか考えられないが、これに関する直接の歴史資料は特にない。しかし天正9年(1581年)、龍造寺政家が小代親伝に大野別府二百町を与えていることから[9]、その年に龍造寺氏の攻撃に遭い、大野氏が滅亡し、その庇護にあった浄光寺も焼失したとされる。


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