蓮華寺_(京都市左京区)
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蓮華寺

蓮華寺山門から参道越しに庫裏に臨む
所在地京都府京都市左京区上高野八幡町1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度3分50.6秒 東経135度47分59.9秒 / 北緯35.064056度 東経135.799972度 / 35.064056; 135.799972座標: 北緯35度3分50.6秒 東経135度47分59.9秒 / 北緯35.064056度 東経135.799972度 / 35.064056; 135.799972
山号帰命山
宗派天台宗
本尊釈迦如来
開山実蔵坊実俊
開基今枝近義
中興寛文2年(1662年
別称洛北蓮華寺
文化財紙本著色山王霊験記 ほか
法人番号6130005001925
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蓮華寺(れんげじ)は京都市左京区にある天台宗の寺院。山号は帰命山(きみょうざん)[1]。近世初期に造営された池泉鑑賞式庭園によって知られる。
概要

蓮華寺は鴨川源流のひとつの高野川のほとり、比叡山を間近に望む、上高野の地にある。しかし、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院であり[2]応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期の寛文2年(1662年)に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が再建したものである[2]

上高野は、かつて近義の祖父、重直の庵があった土地であった[3][4]。重直は、美濃国出身の武士で、豊臣秀次に仕えた後、加賀前田家に招かれた。晩年に至って得度し、宗二(そうじ)居士と号して、詩書や絵画、茶道に通じた文人として草庵を結んだ。また、仏道への帰依の念も深く、上高野の地に寺院を建立することを願っていたが、果たせずして寛永4年(1627年)に死去した。近義が蓮華寺を造営したのは、祖父の願いに応え、菩提を弔うためと考えられている[3]

上述のように、蓮華寺の起源である西来院は本来は時宗寺院であった。しかし、近義による再建に際して実蔵坊実俊(じつぞうぼうじっしゅん)という比叡山延暦寺の僧が開山として招かれたことから、比叡山延暦寺を本山とし、延暦寺実蔵坊の末寺のひとつとして天台宗に属する寺院となった[5]。また、蓮華寺という寺号は、当寺の寺地が、恵心僧都が発願建立した同名の天台宗廃寺の跡地であったことに由来する[6]

蓮華寺の造営にあたって、詩人・書家詩仙堂を造営した石川丈山朱子学者の木下順庵狩野派画家の狩野探幽黄檗宗の開祖である隠元隆gや第二世の木庵性?らが協力した[5][3]ことが、天和元年(1681年)付の黒川道祐の「東北歴覧之記」(『近畿游覧誌稿』所収)に記されている[7][8]。また、天明6年(1786年)の「拾遺都名所図会」には境内図が描かれている[7][9]。上述のような文人たちの協力を得て造営されたことにより、蓮華寺は黄檗宗の様式の建築と江戸初期の池泉鑑賞式の典型ともいえる庭園をもつ寺院となった[10]
境内
山門
創建当時の山門が今日も残されており、山門を入ると庫裏まで延びる石畳の参道が目に入ってくる
[11]
鐘楼
桧皮葺・宝形の屋根と格子状の側面をもつ、禅風の様式による建築物。釣鐘には「黄檗二世 木庵?山僧」の銘が刻まれており、宇治萬福寺と同じ形式である[12]
石仏群
山門を入ってすぐ、左手には約300体といわれる石仏群が居並んでいる。これらは京都市電河原町線の敷設工事に際して発掘されたものである[12]河原町周辺はかつて鴨川の河原で、戦災や天災による死者や刑死者の屍が打ち捨てられる遺棄葬の場であった。そうした死者を弔うための石仏群が、鴨川の氾濫によって埋没していたものが工事によって掘り起こされ、供養されているのがこの石仏群である。これらの石仏群はいずれも大日如来像で、中央には地蔵菩薩像が配されている[12]
土蔵
参道右手にある(非公開)。1872年(明治5年)の学制まで、男女共学の寺子屋の教場として使われていた形跡が残されている[12]

山門から境内を望む(正面は庫裏)

石仏群

鐘楼

土蔵

庭園

参道正面を行き当たると書院と一体化した庫裏がある。庫裏内に設けられた拝観受付から書院に入るには、日常の宗教行事のすべてが行われている阿弥陀三尊が安置された小部屋を通る[13]
池泉鑑賞式庭園

庭園は書院の東に築造されており、東向きに開けた書院から庭園を一望することが出来る[14]。この庭園は再建期の寛文年間の作と考えられており、実蔵坊文書の記録や作庭様式から裏付けられるが[15]、庭園の造営者の名は不明である。

丈山説は、丈山の筆による寺額が本堂に掲げられていること[5]や、丈山81歳の時に、狩野探幽に重直の像を描かせ、讃の筆をとったことから起こった説と考えられている[16]が、丈山の讃は重直の来歴と武功のことしか触れておらず、庭園には全く言及がない[16]。また、庭園の手法や様式が丈山のものではありえない[5][16]ことから誤りである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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