蓮池薫
[Wikipedia|▼Menu]

はすいけ かおる
蓮池 薫
生誕 (1957-09-29)
1957年9月29日(66歳)
新潟県柏崎市
国籍 日本
別名パク・スンチョル(北朝鮮での名[1]
親秀量(父)
ハツイ(母)
家族祐木子(妻)
(兄)
みどり(妹)
テンプレートを表示

蓮池 薫(はすいけ かおる、1957年昭和32年)9月29日 - )は、日本の著述家、翻訳家、大学教員。北朝鮮による拉致被害者新潟産業大学経済学部教授
人物

新潟県柏崎市出身。新潟県立柏崎高等学校を経て中央大学法学部に進学、1978年(昭和53年)夏、大学3年生(当時20歳)のとき北朝鮮工作員によって拉致され、2002年平成14年)10月に帰国するまでの24年間、北朝鮮において主として日本の新聞翻訳業務を強いられる生活を送る[2]。帰国後、復学して中央大学法学部を卒業、その後新潟大学大学院に進んで修士課程修了。新潟産業大学経済学部教授

著書『半島へ、ふたたび』により新潮ドキュメント賞を受賞した(2009年8月27日[3])。蓮池透の実弟。
来歴
生い立ち

蓮池薫は、1957年、学校教員の父、市役所職員の母の次男として生まれた[4]。彼が通った柏崎市立日吉小学校は1学年1クラスの小規模校で、3学年上の兄透と釣りをすることが多かった[5]。透も薫も「おばあちゃん子」だった[6][7]。小学校1年生のとき、オート三輪にはねられ砂利道を10数メートルも引きずられる交通事故で大けがをし、一時は左足の切断も検討されたが、何度も手術と入院を繰り返して大事なきを得た[4][注釈 1]。市立西中通中学校では野球部に入部し、捕手として活躍、主将を務めた[5]。3年次には、新潟県大会で準優勝を果たし、ナゴヤ球場でおこなわれた中部日本大会に出場している[5]。県立柏崎高等学校では演劇部に所属した[5]。中央大学法学部には現役で合格している[5]
拉致

1978年(昭和53年)7月31日、中央大学法学部3年在学中に、夏休みで実家に帰省していたところを拉致された[8]。その日の午後6時、蓮池薫はグループ交際を通じて知り合った奥土祐木子と柏崎市立図書館で待ち合わせをしていた[9][注釈 2]。奥土祐木子は当時22歳で、カネボウの美容指導員として働いていた[6][9]図書館は海岸から250メートルしか離れておらず、海辺は2人がよく散歩する場所であった[11]。蓮池は母親に「ちょっと出かける。すぐ帰る」と言って、奥土祐木子は職場の上司に「コーヒーを一杯飲んで午後8時までには帰ります」といって出かけていた[11][10]

海岸で散歩をしていた2人に3、4人組の男が近づき、そのうちの1人が「すいません、たばこの火を貸してくれませんか」と声をかけ、次の瞬間、蓮池の眉間を激しく殴って顔がはれあがるほどになった[10][12][13]。その後、蓮池は男の1人に「静かにしなさい」と言われ、頭から袋をかぶせられてボートに乗せられた[10][12][13][注釈 3]。やがて工作船に移され、薬を打たれ、意識が朦朧とするなかで目隠しの隙間から柏崎の明かりが遠のくのを感じた[2][10]。船が着いたところは北朝鮮北東の港町、清津であった[2][13]。図書館の前には蓮池の乗ってきた自転車が放置されていた[10]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:94 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef