蓬?社
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蓬?社本社 現在の銀座8丁目13番 銀座三井ビル付近後藤 象二郎

蓬?社(ほうらいしゃ)は、1873年明治6年)2月(設立年月には異説あり)[† 1][3]征韓論を主張して敗れ下野した後藤象二郎を中心に士族たち、島田組鴻池組などの関西商人、上杉・蜂須賀などの旧大名らなど後藤象二郎の幅広い人脈によって設立された会社[1]。金融・為替業および高島炭鉱経営の他、海運業、洋紙製紙業、近代的機械精糖業、神岡鉱山経営などと幅広く業務を手がけたが、経営は不振で1876年(明治9年)8月 わずか3年半ほどの期間で倒産している[4]。後藤の経営は大隈重信の言葉によると「士族の商売」であり[5]、前時代的であり過ぎたが、資本の有限責任性や持分資本家と機能資本家の分離など時代の先を行く面もあり[6]、また洋紙製紙業、近代的機械精糖業は結果的には事業に失敗したとはいえ、それぞれ日本における嚆矢であり時代的意義は大きい[7]。後藤は蓬?社の事業失敗で巨大な借金をかかえるが、その後も政界で活躍する。銀座汐留にかかっていた木橋は蓬?社の資金で石橋に架け替えられたため蓬?橋と名付けられ、現代に蓬?橋交差点としてその社名を残している[8]
設立の経緯
大阪商人の思惑
明治政府は
通商司の管理下で通商・為替会社を置き、全国的商品流通機構の再編を目指していた。これらの通商・為替会社は中央銀行以下近代的な銀行が整備された将来には役割を終えるものと考えられていたが、明治初頭の時期では大阪商人たちが再編の波に乗る機会でもあった。通商・為替会社の傘下の機能を持つ三陸商社や三越商社、先収会社などの商社が設立されたのもこの時期である[9]


農民からの年貢米を換金し流通させる貢米買受業務とそれから派生する公金取り扱い業務(為替方)は三井組・小野組島田組などが扱っていた。貢米買受業務および無利子で巨額の公金を扱う為替方のメリットは大きかったが、その業務に参加するには巨額の資本と米穀流通や為替に関する知識も必要であった。鴻池などの大阪商人たちもこれらの業務に携われるだけの条件を備えており、大阪商人たちは共同で会社を作りそれによって貢米買受業務や為替方業務を担うことを期待していた[9]


鴻池らの大阪商人たちは江戸時代、大名家に多額の貸し付けをしていたが、明治維新によって幕藩体制が崩れても各大名家への膨大な貸し付け(旧藩債)は残っていた。大阪商人たちはその旧大名たちの債務を新政府が引き受けることを期待し、明治元年-2年大阪府知事を務め接触のあった後藤象二郎にそれを頼み、代わりに旧大名たちの債務を引き受けた新政府が払った資金を後藤の設立する会社に出資することを約束した[10]


後藤象二郎の思惑

後藤は薩長が権力をふるう政府を見て、薩長を抑制するために民間の勢力を養成し下から薩長藩閥政府を打破して国民政府を作らねばならないと考えていた。後藤は自ら野に下り商人となって商業を興し、ひいては一般国民の力を盛り上げようと考えた。後藤自身は実務に暗いので、後藤よりは実務に明るい大隈重信に賛助を求めた。しかし、大隈からは後藤や自分では「士族の商法」で失敗すると反対された。大隈からは反対されたものの後藤は会社設立に突き進む。後藤は会社設立の動きを進めながらも、政府内では西郷板垣江藤副島らと共に征韓論を唱える。しかし1873年(明治6年)10月征韓論者は敗れ野に下る。後藤も同じく参議を辞職し蓬?社経営に専念することになる[11]
資本と参加者の変遷

前節で述べたそれぞれの思惑、つまり、旧大名家への貸し付け(旧藩債)が焦付くことを恐れ、また新しい通商・為替会社の必要を感じた大阪商人は後藤象二郎の政治力によって旧藩債を明治政府の国債として回収することを期待し、それを後藤の会社に投資することで貢米買受業務および為替方に参加する一石二鳥を考え、後藤も多額の資金を自分の会社に導入できるというメリットがあり両者の利害が一致し会社設立計画は進む。

1873年(明治6年)3月の蓬?社出資計画では鴻池善右衛門の120万円、長田作兵衛(加嶋屋)71万円、和田久左衛門(辰巳屋)50万円、高木五兵衛(平野屋)49万円、石崎喜兵衛(米屋)30万円[† 2]など大阪商人から340万円(ほとんどが現金ではなく大名貸付を転換した国債にての出資)と旧大名である上杉斉憲蜂須賀茂韶からの105万円 計445万円を予定していた。しかし、この計画はもろくも崩れる。蓬?社参加予定者だった長田作兵衛と高木五兵衛の分家の百武安兵衛は蓬?社が扱うはずの広島県の公金を流用してしまい、その穴埋めを蓬?社に参加する大阪商人たちがさせられたのである。さらに大阪商人たちの旧藩債は大幅に減額され、鴻池は120万円の大名貸債権が30万円しか回収できなかった。これらのことによって大阪商人たちは蓬?社への参加・出資を取りやめる意向に変化した。後藤の慰留により大阪商人たちは名目上は蓬?社に残るものの事実上の出資は行われず、後藤は蓬?社の計画を大幅に見直さなければならなかったのである[13]

1874年(明治7年)8月、後藤らは大阪商人らと協議し、改めて規約を制定する。1874年の新たな出資予定では上杉斉憲26万円、蜂須賀茂韶24万円、後藤と親しかった京都の豪商島田八郎左衛門25万円、同じく島田善右衛門25万円、後藤象二郎8万円以下合計で250万円と大きく出資者を変え金額も減り、大阪商人たちは一応名前だけは残すものの出資金額は未定となっていた。つまり当初の大阪商人と後藤の会社の予定が、まったく異なってしまったのである[14]。しかも新たな出資予定の250万円も全額が出資されたわけではなく、現実に払われた資本金は少なかった。大町桂月の後藤象二郎伝記ではわずか十数万円程度とさえされている[15]。このように最初から予定外の船出であったが、にもかかわらず後藤は様々な事業に手を染めていくのである。
事業

蓬?社の事業は史料が十分には残っておらず詳細は不明な点も多い。わかっている中で大まかに蓬?社の事業について述べる。
年貢米買請・石代金納業務

蓬?社の正式な発足の前、1872年(明治5年)にすでに大阪商人たちの連名で三潴県小倉県福岡県名東県岡山県・東肥県(白川県八代県)の6県(いずれも明治初頭の旧制度の県)で年貢米買請業務引き受けを申請し許可されている。蓬?社の正式な発足前なのでこれは蓬?社の前身の六海社としての受けたと思われている。蓬?社がこれを引き継いだのは確実である[16]
府県為替・官金取扱い業務

蓬?社は広島県と三潴県および陸軍省の公金を取り扱っている。また史料は残っていないが、前述した年貢米買請業務を担当した小倉県・福岡県・名東県・岡山県・東肥県(白川県・八代県)でも年貢米買請業務と関連した公金取り扱い業務を行っていた可能性は高い[16]
金融業務

蓬?社では商品取引に対する貸し付け業務も行っている。しかし、生産以前の商品に対する貸し付けは行わず、船や不動産、畜類、銃弾などの取引に対しても貸し付けは行わなかった。また旧藩札の交換業務も行っていた。旧藩札の交換業務では交換手数料のほか相場変動に応じた取引での売買で利潤も上げていたとみられる[17]
石炭業

後藤象二郎は蓬?社の名前で1874年(明治7年)11月55万円(内20万円は即納)にて高島炭鉱の払い下げを受けている。高島炭鉱は蓬?社の経営というよりも後藤個人の経営という面が強かったが、後藤は代金の即納分20万円を用意できずジャーディン・マセソン商会から20万ドル(西南戦争までは1ドル=1円)借り受けている。さらに1875年(明治8年)3月ジャーディン・マセソン商会から40万ドルを借りて排水ポンプや巻揚機械を装備している。炭鉱はある程度順調に出炭するものの工夫48人が死亡するガス爆発事故や他にも火災事故、コレラ発生などがあり、炭鉱事業で特に利益を上げることもできず、蓬?社の負債を炭鉱事業で穴埋めすることはできなかった。蓬?社倒産後も後藤はしばらく高島炭鉱を所持し続けるが、結局高島炭鉱経営で後藤が負ったジャーディン・マセソン商会からの総額100万ドルの負債はまったく返せなないままだった。1881年(明治14年)1月、ジャーディン・マセソン商会は後藤に対する利子込の債権110万ドルを放棄、20万ドルの返済で合意し、高島炭鉱はその20万ドルを立て替えた三菱の手に渡る。三菱高島炭鉱の始まりである[18]
海運業

大町桂月の伝記『伯爵後藤象二郎』によれば蓬?社は蒸気船5隻を持っていたとのことである。北海道や九州などとの海運業に加え貿易業(ジャーディン・マセソン商会との事業)にも携わったとされるが、大町桂月の伝記以外の史料は乏しく詳細は不明である[16]
製糖業

蓬?社では正式な設立後まもなく製糖事業を計画している。商人・士族らの会社である蓬?社がなぜ工場経営に手を出そうと考えたのかについては不明だが、1873年(明治6年)3月蓬?社の資本家の一人島田八郎左衛門は大阪在留のイギリス商人キルビーにイギリス製の搾汁機と精製機を注文している。搾汁機はサトウキビを搾って白下糖(粗糖)を作り、精製機はそれを精製して精製糖(白砂糖)にする機械である。


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