蓑田 胸喜
みのだ むねき
生誕明治27年(1894年)1月26日
日本・熊本県八代郡吉野村(現・八代郡氷川町)
死没昭和21年(1946年)1月30日
日本・熊本県八代郡吉野村(現・八代郡氷川町)
自殺
出身校八代中学校
第五高等学校
東京帝国大学
学派国粋主義
反共主義
天皇主権説
主な概念しきしまのみち
蓑田 胸喜(みのだ むねき、明治27年〈1894年〉1月26日 - 昭和21年〈1946年〉1月30日)は、日本の右翼思想家、反共主義者。慶應義塾大学予科、国士舘専門学校教授、原理日本社主宰、国際反共連盟評議員。東京帝国大学文科大学宗教学科卒業。熊本県出身。 熊本県八代郡吉野村(現・氷川町)生。八代中学校を経て、第五高等学校(五高)に学ぶ。五高での同期には佐々弘雄、細川隆元がいる。 1917年(大正6年)、五高卒業後、東京帝国大学入学。最初は法科大学(法学部)に入学するが、文科大学(文学部)宗教学科に転学し、宗教学者の姉崎正治に師事する。1920年(大正9年)文学部卒業、さらに法学部政治学科に学士入学する。帝大在学中は、天皇機関説と激しい論争を展開したことでも知られる君権学派憲法学者の上杉慎吉が指導していた国粋主義的な学生団体である興国同志会に入会するとともに、三井甲之に私淑するようになる。 1922年(大正11年)4月、慶應義塾大学予科教授となり、若宮卯之助らと共に約10年間、論理学や心理学を講義する。1925年(大正14年)11月7日、三井らと共に原理日本社を創立し、雑誌『原理日本』の刊行を始める。慶應義塾では「精神科学研究会 1932年(昭和7年)4月、慶應義塾を退職し、国士舘専門学校教授となる。 貴族院議員であった美濃部達吉が辞職させられた、天皇機関説事件に始まる大学粛正運動の理論的指導者であり、滝川幸辰、大内兵衛らの追放、津田左右吉の古代史著作発禁事件も、蓑田の批判論文がそもそものきっかけである。1934年6月6日、東京帝大教授末弘厳太郎を治安維持法違反・不敬罪・朝憲紊乱罪で告発した。 1936年11月の日独防共協定が締結後は、1937年4月に平沼騏一郎や近衛文麿らが顧問を務める反共・国粋主義の国際反共連盟が結成され[2]、その評議員の一人として反共雑誌『反共情報』に寄稿していた。1938年には帝大粛正期成同盟を組み、対外防共協定に呼応した国内に対する滅共を唱えた[3]。1938年2月25日、英学者の松田福松 1941年(昭和16年)、内紛に巻き込まれて国士舘専門学校を退職。7月、『学術維新』を刊行。1942年(昭和17年)頃から健康状態が悪化し、論文の発表も『原理日本』1943年(昭和18年)5月号で途切れた。 1944年(昭和19年)6月、郷里の吉野村に疎開し、終戦後に自宅で首を吊って自殺した[4]。
生涯
生い立ち
右翼の理論家
晩年