蒼国来栄吉
[Wikipedia|▼Menu]

蒼国来 栄吉


基礎情報
四股名?國来→蒼国来 栄吉
本名エンクー・トプシン
旧名・中国名:恩和?布新
愛称エンクー、エンさん
生年月日 (1984-01-09) 1984年1月9日(40歳)
出身 中国内蒙古自治区赤峰市
身長186cm
体重145kg
BMI42.78
所属部屋荒汐部屋
得意技右四つ、寄り、投げ
成績
現在の番付引退
最高位東前頭2枚目
生涯戦歴466勝440敗49休(99場所[注釈 2]
幕内戦歴170勝190敗15休(38場所[注釈 2]
優勝十両優勝1回
幕下優勝1回
三段目優勝1回
序ノ口優勝1回
技能賞1回
データ
初土俵2003年9月場所
入幕2010年9月場所
引退2020年3月場所(番付上は2020年7月場所[注釈 1]
引退後年寄荒汐
趣味ラジコン
備考
金星1個(日馬富士1個)
2021年9月4日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

蒼国来 栄吉(そうこくらい えいきち、1984年1月9日 - )は、中国内モンゴル自治区赤峰市出身で荒汐部屋に所属した元大相撲力士2019年に日本国籍を取得。日本名は中国名をそのまま(但し片仮名表記)使用したため、現在の本名はエンクー・トプシン[2][3][4][5]。旧名は恩和図布新(モンゴル語キリル文字表記:Энхт?вшин、ラテン文字転写:Engketubsin、日本語カナ表記:エンヘトゥプシン)、愛称はエンクー。身長186cm、体重145kg、血液型はO型。好物は羊の塩茹で[6]。得意手は右四つ、寄り、投げ。最高位は東前頭2枚目(2017年3月場所)。解雇処分の後、裁判での勝訴を経て幕内力士としての地位を回復し、現役復帰を果たすという珍しい経歴を持つ。現在は年寄荒汐荒汐部屋の師匠を務めている[7]
来歴塩をまき仕切りに戻る蒼国来関
初土俵?荒汐部屋初の関取へ

7歳からモンゴル相撲に親しみ16歳で全国優勝、そして内モンゴル第3スポーツ体育委員会所属レスリング学校に進み、84kg級中国全国ジュニア・ランキング8位という実績を残した。2003年4月に訪中した荒汐親方が体格に恵まれた目当ての弟子候補との交渉がまとまらず帰国の期限が迫っていた際に自ら荒汐が滞在していたホテルまで足を運び入門を直談判した[8]。蒼国来の熱意に折れた荒汐が入門を許可して、同年6月28日に来日して荒汐部屋に入門、同年9月場所で初土俵を踏んだ。入門時点で部屋に1人しか弟子がいない状況の中の新弟子であった。蒼国来が裁判闘争を勝ちぬくまでの様子を記述した言語教育学者の谷岡ケイは「どことなく老成した雰囲気が強すぎる」と当初の印象を自身の報告書に伝えていた[9]

師匠の荒汐の第一印象は「筋肉質だが細い。果たして太れるのか?」というものであり、実際荒汐が本来の弟子候補を視察しに現地の大学へ行った際には目にも留まらなかった。再び視察に大学へ行った際に蒼国来の股割りや摺り足などの基本動作、体力をチェックし、合格の判が押された[10]。テストの際に出来た股割りは入門したくて必死であったため出来たといい、来日直後は股割りが出来なくなっていた。一応日本の相撲の存在そのものは知っていたそうで、大学側からもし相撲で失敗した際にはレスリングに復帰する手筈を整えると言われたことが相撲に飛び込んだ要因となった[11]

2003年11月場所では序ノ口優勝を果たし、2004年1月場所は右上腕骨折のため全休(記録上は1不戦敗6休)するが、3月場所は序二段で7戦全勝(優勝同点)、同年11月場所では幕下に昇進した[12]。同年末に「1年間がんばって、ダメだったら戻ってきてもいいぞ」と蒼国来と約束したレスリング部の監督に挨拶しようと内モンゴルに戻った[12]。荒汐と女将はそのまま内モンゴルから戻ってこないのではと心配したが、相撲を途中で投げ出したら周囲から白い目で見られると自覚していた蒼国来は部屋にきちんと戻った[13]

その後は幕下と三段目の往復が続いていた。2007年5月場所では三段目筆頭で7戦全勝優勝を成し遂げ、翌7月場所は一気に幕下11枚目まで昇進し、ここでも5勝2敗と勝ち越し、翌9月場所は幕下5枚目に昇進して4勝3敗と勝ち越した。しかし、11月場所には自己最高位の東幕下2枚目で3勝4敗と負け越した。

その後も幕下上位での一進一退が続いていたが、2008年に入り十二指腸潰瘍のため体調を崩し番付を大幅に落とした。体調が回復した7月場所では6勝1敗の成績で優勝決定戦に進出した。9月場所では東幕下10枚目と再び関取が見える幕下上位15番目以内まで番付を戻して4勝3敗で勝ち越し、11月場所では西幕下4枚目まで番付を上げたが2勝5敗に終わり、西18枚目まで番付を落とした。しかし2009年7月場所では幕下西4枚目で4勝3敗と勝ち越し、9月場所では自己最高位である幕下西筆頭まで番付を上げ、ここでも4勝3敗と勝ち越したが十両からの陥落者が少なく11月場所は東幕下筆頭に留め置かれた。

幕下で5年ほどくすぶっていた頃は体重が中々増えなかった。減量を行う必要のあるレスリングを経験した中でよく噛んで食べる習慣が染みついていたため、増量に必要な一気に飲み食いするという行為が苦手であったのである[13]

東幕下筆頭で迎えた2009年11月場所では5勝2敗と勝ち越し、同年12月2日に開かれた番付編成会議で2010年1月場所での新十両昇進が決定した[14]。中国人(中華人民共和国籍)力士の関取昇進は、1974年7月場所の清乃華(生まれ・育ちは大阪府で、新十両を機に福建省を出身地とした)以来36年ぶり2人目、内モンゴル出身者では(さらに言えば中国の生まれ・育ちである中国人[15]の中でも)史上初である。また、部屋創立8年目の荒汐部屋にとっても初の関取誕生であった[16][17]。十両昇進が決定すると荒汐の電話には後援者や知人からの電話が殺到し、長時間使用により携帯電話のバッテリーは発火寸前となり、慌てて携帯ショップに駆け込んでバッテリー交換を頼んだところ既に携帯電話の内部は真っ黒でバッテリー交換が不能な状態となっていたため、荒汐は携帯電話を買い替えた[18]

新十両となった2010年1月場所から4場所連続で勝ち越し、9月場所で新入幕。西前頭13枚目で8勝7敗と勝ち越した。翌11月場所は6勝9敗と負け越したが、翌年1月場所は8勝7敗と勝ち越し、幕内定着を果たしたかに思えた矢先、八百長問題(後述)により解雇処分となる。

この後、約2年半後に幕内力士として復帰するまでの間、所属していた荒汐部屋で生活しつつ稽古を続けていた[19]他、日野自動車ラグビー部の練習に参加して体力を鍛えたり[20]、代々木公園で行われるモンゴル・ブフ・クラブの稽古に参加して勝負勘を維持した[6]。解雇期間中、トレーニングのし過ぎで足が腫れ、治るまで1ヶ月間トレーニングを中断せざるを得なくなったこともある[13]
大相撲復帰後

裁判(後述)を経て西前頭15枚目の幕内力士として復帰し、2013年7月場所に自身2年半ぶりの本場所を迎えた。関取衆からは「ブランクは致命傷、絶対大怪我する」とまで危惧され[21]、2年も大相撲の稽古場に立っていないため三段目の力しか残っていないという声もあった[13]。師匠の荒汐からも「勝って3番ぐらいだろう」と予想されていた[22]ものの、解雇期間中もトレーニングを怠らなかった甲斐もあったのか、心配された故障の発生は無かった。しかしながら2年以上のブランクの影響は隠し切れず、復帰場所は6勝9敗、続く9月場所は東十両筆頭の地位で4勝11敗、翌11月場所を西十両7枚目の地位で5勝10敗と3場所連続での負け越しに甘んじた。

大相撲復帰の経緯から師匠は7月場所前に「相手は親の敵だと思って向かってくるから気をつけろよ」とアドバイスをした。裁判で潔白は証明されたが最初は周囲から色眼鏡で見られ、本人も後に「支度部屋での視線がつらかったです」と話していた。周囲に再び溶け込むまで1年はかかったそうであるが、師匠によると温和で優しく自己主張しない性格が他の力士との関係を修復させ、彼らとうまく付き合うことができるようにしたとのこと。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:91 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef