蒸気自動車(じょうきじどうしゃ)は蒸気機関を用いて駆動する自動車である。人工の動力を用いて進むことのできる、人類初の乗り物であった。
目次
1 発明
2 実用化
3 20世紀初頭の蒸気自動車
3.1 ロコモービル Runabout
3.2 ホワイト スチーマー
3.3 スタンレースチーマー
3.4 移動遊園地
4 変転
5 現在
6 近代的な蒸気自動車
6.1 サーブ蒸気自動車
6.2 日産スチーム・セドリック
6.3 Enginion 蒸気セル
7 速度記録への挑戦
7.1 ブリティッシュ スチームカー チャレンジ(1999 - 2009)
8 将来
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク
発明 パリ工芸博物館展示される1771年修復後のキュニョーの砲車2号車詳細は「キュニョーの砲車」を参照
蒸気自動車が発明されたのは1769年とされ、蒸気機関車(1804年)や蒸気船よりも古い。発明者はフランスの軍事技術者、ニコラ=ジョゼフ・キュニョーである。
キュニョーはラチェット機構と2つのピストンを交互に用いることで蒸気機関のピストンの直線運動を連続的な回転運動に変換する仕組みをつくり、これを用いて、前輪駆動の三輪自動車を製作した。フランス軍を統率していた宰相ショワズールの命により、野戦時の大砲牽引をおこなっている馬と荷車に代わるものとして、つまり、5トンの大砲を牽引するための重量運搬具(現代のトラック)として依頼された。大砲を後部に積載する仕様のため、車としての機能はすべて前方に置かれる設計となり、エンジンが直接前輪を駆動しまた駆動輪である前輪ひとつにボイラーを含む蒸気エンジン部のすべての重量がかかる構造となり、操舵時は前輪と共にエンジン全体が首を振る構造となっていた。このため舵取りは難しかったがこの時代に選択肢は他になかった。
この試作車は全長7メートルを超える大型トラックであり、5トンの荷を積載し大人4人が時速9kmほどで走行できたが、15分ごとにボイラーへ給水する必要があり実際の移動速度は時速3.5km程となった。試作車として2年で2台が製作されこれが世界最初の自動車と認定されている。ショワズールの失脚後プロジェクトは放置されその結論を出さずに終わってしまった。その技術を直接引き継ぐ者はいなかった。
2号車はフランス革命をくぐりぬけパリ工芸博物館で1801年から公開されており現在も見学ができる。レプリカも複数作られておりさまざまな博物館に展示されている。日本では長久手市にあるトヨタ博物館に10分の1の模型が展示されている。
実用化 蒸気ローラー
その後、蒸気自動車の研究で大きな成果を上げたのはイギリスのリチャード・トレビシックで、そのころ進化していた蒸気機関を使用し、1801年12月、に試作車を製作した。
その後、ゴールズワージー・ガーニー(英語版)、ウォルター・ハンコック(英語版)らによって乗合自動車として実用化され、馬なし馬車(Horseless Carriage)と呼ばれるようになった。1827年頃からイギリス各地を結んだ定期運行が始まり、交通機関として定着するかに見えた。
しかし乗合自動車に乗客を奪われた乗合馬車業者からの圧力や、市街地での騒音・煤煙などの公害、ボイラーの爆発事故への批判から、1865年に「赤旗法」が制定される。この法律は、蒸気自動車は郊外では4マイル(6.4km)/h、市内では2マイル(3.2km)/hに速度を制限するもので、人や動物に警告する為に、赤い旗を持った歩行者が先導しなければならなくなった。これによって交通機関として蒸気自動車を運行することは事実上不可能となり、蒸気自動車の製造メーカーは法律に抵触しない低速の農耕用トラクターを製造することで事業の存続を図った。イギリスで蒸気動力のトラクターが広く普及した一方、後続のガソリン自動車も含めて高速の自動車開発がヨーロッパ大陸諸国に比して1900年代初頭までやや遅れていたのは、このような背景からである。
またヨーロッパ大陸でも蒸気自動車の研究が進められた。特にフランスでは鐘の鋳造職人から転じたアメデー・ボレー(英語版)とその息子たちが1873年から1890年代にかけて先進的な設計の蒸気自動車を相次いで開発、また発明家のレオン・セルポレー(フランス語版)は1888年にごく少時間で高圧蒸気を発生させられる「フラッシュ・ボイラー」を実用化している。さらに資産家のアルベール・ド・ディオン伯爵(英語版)が技術者のジョルジュ・ブートン(英語版)らを擁して開発したド・ディオン・ブートン(英語版)蒸気自動車は、1890年代の初期自動車レースにおいてガソリン自動車と互角の戦いを見せたりもした。しかし実用上のガソリン車の優位性が明確になるにつれ、1900年前後にはそれら著名な蒸気自動車メーカーもガソリン車生産への転換を図るようになり、用途面で速度よりもごく低速の牽引力が要求される蒸気トラクターのみが比較的遅くまで残ったのは、イギリスと同じであった。
その後の蒸気自動車は米国で発展を遂げる。ボイラーの小型化に成功し、外見・性能とも当時の内燃機関動力の自動車と遜色がなかった。蒸気自動車の製造で最も成功を収めた米国のスタンレー社では1897年から生産した。当時、開発途上で重く、振動の多かった内燃機関と比べ外燃機関である蒸気機関は静粛でトルクが大きく変速機を使用せずに車輪を回転させる事ができた。しかし、瞬間湯沸し式のボイラーが実用化されるまで起動に時間がかかり、給水の手間がかかる為、一部で普及するにとどまった。
一方、イギリスを中心に普及発展した農耕・建設用の蒸気自動車はトラクションエンジンとも呼ばれ、農地を耕す為に使用され、道路舗装用には蒸気ローラーが使用された。産業革命において蒸気機関車が陸上輸送の拡大に革命をもたらしたのに対して、トラクションエンジンは輸送よりもむしろインフラ整備や農作業の機械化に貢献したと言えよう。
日本で最初に導入された蒸気自動車は、1902年に横浜の貿易商が米国・ロコモービル社製の蒸気自動車を輸入した。このうちの1台は男爵いもで有名な川田龍吉男爵が購入し、自ら運転した[1]。川田男爵の蒸気自動車は、現在も北海道北斗市の男爵資料館に保存されている。
また、岡山県在住の技術者・山羽虎夫が1904年に初の純国産自動車となる「山羽式蒸気自動車」を製作、試運転を行っている[2]。走行には成功したが、納入先の資産家(バスとして使用する目的だった)に向かう途中で、橋にかかる手前でゴムタイヤ(当時日本にゴムタイヤの工場はなく、まったく一から製作したもの)が未舗装の道路に耐えることができず、実用化には至らなかった[3]。当時の車体は現存はしていない。 1902年、新規登録された909台中485台が蒸気自動車であった[4]。 1899年からモービル社が10支社と58ディーラーを持っていた。合衆国における蒸気自動車の生産の中心はニューイングランドで84社中、38社があった。ホワイト、エクリプス、コッタ、クロウチ、フッド、他があった。1903年、43社が廃業した。1923年、カナダのブルックスが開業した。1926年に終了した[4]。 ホワイト スチーマーはオハイオ州クリーブランドで1900年から1910年までホワイトモーター会社で生産された。
20世紀初頭の蒸気自動車
ロコモービル Runabout(英語版
ホワイト スチーマー