蒲鮮万奴
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蒲鮮万奴
大真国
初代皇帝
蒲鮮万奴(Puxi?n Wannu)
王朝大真国
在位期間1214年 - 1233年
都城南京
姓・諱蒲鮮万奴
生年不明
没年不明
年号天泰 : 1215年 - 1223年
大同 : 1224年 - 1233年

蒲鮮 万奴(ほせん ばんど、生没年不詳)は、13世紀前半に中国東北部(満州)からロシア沿海地方で活動した女真武将金朝に仕えていたが、金末の混乱期に自立して大真国を建国した。

聖武親征録』では也奴、『元朝秘史』では夫合奴とも表記されるが、これらはいずれも「万奴(?an nu)」同音異訳であると見られる[1][2]。また、ペルシア語史料の『集史』では????? ??????(f?j?? t???sh?)とも表記される[3]

蒲鮮万奴の列伝は『金史』『元史』ともに存在せず、その生涯については諸史料に断片的な記録に残るに過ぎない。そのため、蒲鮮万奴の生涯については不明な点が多く、日本の東洋史学者の間でも活発な議論がなされたことがある。
概要
出自

蒲鮮万奴の出自については史料上に全く記載がないが、『元史』巻119列伝6塔思伝などでは「完顔万奴」とも表記され[4]、金朝の宗室に連なる家系の出であったと見られる[5]。これを裏付けるように、『帰潜志』巻5には「[金の]宗室の万奴」、「東平王世家」には「完顔万奴、金の内族也」と記されている[6]

蒲鮮万奴が始めて史料上に現れるのは1206年泰和6年/丙寅)のことで、開禧用兵によって侵攻してきた南宋の将の皇甫斌を撃退するため金・南宋国境地帯に派遣された[2][7]。平章の僕散揆の配下にあった「副統尚厩局使」の蒲鮮万奴は完顔賽不・完顔達吉不らとともに7千騎を率いて南宋軍を夜襲し、完顔賽不が中軍を、完顔達吉不は左翼軍を、蒲鮮万奴は右翼軍をそれぞれ率いて南宋軍を大いに撃ち破った[7]。南宋軍が潰走すると蒲鮮万奴は真陽路への道を断って退路を塞ぎ、金軍は陳沢で南宋軍を包囲し斬首2万級・戦馬や家畜1千余りを得る大勝利を得た[7]。この大勝利を受けて完顔賽不・蒲鮮万奴はそれぞれ爵位を上げられ[8]、以後蒲鮮万奴が金の将として重用される端緒を作ることになった[2]
金の宣撫使としてチンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大

1211年大安3年/辛未)、モンゴル軍の侵攻を受けた金朝は野狐嶺の戦いにおける惨敗によって長城以北の統制を失い、遼東方面では契丹人耶律留哥が金軍を破り、モンゴル軍の助けを得て自立した。これを受けて、金朝朝廷は東北路招討使の官衙をタオル河流域の泰州から東方のスンガリ河流域の肇州に移し[9]、これにあわせて耶律留哥討伐のため完顔鉄哥と蒲鮮万奴を派遣した[10]。この時、蒲鮮万奴は完顔鉄哥と行動を別にして咸平府に駐屯しており[11]、当初は北方の肇州から完顔鉄哥が、南方の咸平から蒲鮮万奴が、丁度その中間に位置する耶律留哥を挟み撃ちにする計画であったと見られる[12]

しかし、完顔鉄哥の方が軍が強力なことを忌避した蒲鮮万奴は騎兵2千を派遣するよう要請し、また独自に泰州から兵3千と戸口を咸平に移そうとした[11]。蒲鮮万奴の「異志」を察知していた完顔鉄哥は蒲鮮万奴の要求を拒否したものの、蒲鮮万奴が宣撫使に昇格すると援軍を派遣しなかった罪により完顔鉄哥は殺害されてしまった[11]。蒲鮮万奴の遼東派遣、咸平等路宣撫への任命が1214年貞祐2年/甲戌)に行われたことは、モンゴル側の史料『聖武親征録』にも記載がある[13][14]

同年秋頃、自らに逆らう完顔鉄哥を排除した蒲鮮万奴は奥屯襄らとともに遂に耶律留哥討伐のため40万と号する大軍を率いて北上した[15]。耶律留哥は蒲鮮万奴軍を帰仁県北の河沿いに迎え撃ち、激戦の末蒲鮮万奴軍は潰走して東京遼陽府まで逃れた[16]。これを受けて金の宣宗は11月に詔を蒲鮮万奴・奥屯襄らに出し、「上京・遼東」は国家の重地であって、各軍は相互に協力して挽回せよと命じている[17][18][19]
大真国の樹立遼河周辺図

1215年(貞祐3年/乙亥)正月、モンゴル左翼軍に属する石抹エセンの助けを得た耶律留哥は蒲鮮万奴の駐屯していた東京遼陽府を攻略し、遼東一帯を平定した。この頃の蒲鮮万奴の動向は明らかではないが、耶律留哥との直接対決を避けて同年3月には瀋州・広寧方面で軍を率いて駐屯していたようである[20][21]。一方、耶律留哥の陣営(東遼)では耶律可特哥が蒲鮮万奴の妻の李僊娥を娶ったことが問題となり、自らの地位に不安を抱いた耶律可特哥は耶律廝不らを抱き込んで耶律留哥に叛旗を翻した(後遼政権)[22]

東遼の内紛を好機と見た蒲鮮万奴は独自に咸平府・遼陽府・瀋州・澄州などを攻略して事実上金朝より離反し、多くの猛安・謀克がこれに従った[23]。同年3月、蒲鮮万奴は9千の兵を率いて高麗国境に近い婆速路の境に進軍したものの、桓端が派遣した温蒂罕怕哥輦によって撃退された[23]。4月には上京会寧府を掠奪するも、金の都統兀顔鉢轄がこれを迎え撃った[23]。また、この時蒲鮮万奴は別に5千の兵を望雲駅攻略に派遣しているが、都統奥屯馬和尚・都統夾谷合打によって三叉里で撃退されている[23]。5月には逆に都統温蒂罕福寿によって蒲鮮万奴の兵が大寧鎮で攻められ、殲滅された[23]。9月には蒲鮮万奴配下の9千が宜風・湯池に出たが、桓端に敗れて潰走した[23]。しかし、同時期に奄吉斡・都麻渾・賓哥・出台・答愛・顔哥・不灰・活拙・按出・孛徳・烈隣の11猛安が蒲鮮万奴に来附しており[23]、女真族の再結集を目指すという蒲鮮万奴の意図は遼東一帯の女真人に共有されていたようである[24]

遼東の大部分を平定し、自信を深めた蒲鮮万奴は同年10月、遂に「天王」と称し、国号を大真と定め、天泰と改元した[25][26]。しかし、これ以後遼東では耶律留哥の東遼と離反した耶律廝不ら後遼の抗争が激しくなったためか、大真の建国から翌年の夏頃までの蒲鮮万奴の動向はほとんど記録に残っていない[27]。ただし、高麗側の記録(『高麗史』)にはこの頃蒲察移剌都が蒲鮮万奴を破ったとの伝聞情報があり、大真国と金国の残存部隊の間で一進一退の攻防が繰り広げられていたようである[28]
モンゴルへの服属と東遷上京会寧府略図

1215年から1216年にかけて後遼・大真の自立によって遼東状勢が混迷を深めていた一方、モンゴル軍はこの方面に着実に勢力を広げており、1216年(貞祐4年/丙子)7月にはムカリが張致を破って遼西の大部分を平定していた[29]。ここに至り、モンゴルの圧迫を避けがたいと見た蒲鮮万奴は投降を決意し、息子のテゲを質子(トルカク)としてモンゴルに差し出した[30]。しかし、蒲鮮万奴は息子を差し出す一方でモンゴルへの完全な服属は拒み、10万余りの部衆を率いて「海島」に逃れた[31]。この「海島」を「東海」すなわち日本海方面と解釈する説もあるが、大真国の宰相王?が「浮海に遯去した」という記録があることから[32]鴨緑江下流域の鉄州に属する?島こそが蒲鮮万奴の逃れ込んだ海島であるとする説もある[33]


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