この項目では、東京都大田区の地名について説明しています。その他の用法については「蒲田 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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蒲田
広域地名
商業地(繁華街)
夜景
国 日本
都道府県 東京都
特別区 大田区
地域蒲田地域
蒲田
町丁
蒲田(かまた)は、東京都大田区の町名。また、蒲田駅や京急蒲田駅を中心とした繁華街。現行行政区画は、蒲田一丁目から蒲田五丁目。そのほか、「蒲田」がつく町名としては、隣接する西蒲田、東蒲田、蒲田本町、新蒲田、南蒲田がある。
羽田空港が近隣にある地域である。 東京市に編入前の蒲田町、もしくは大森区と合併前の旧蒲田区を前身とする。広域地名としては、JR、および東急の駅を中心とした、蒲田・西蒲田・蒲田本町の北端を中心としたエリア一帯を指すことが多い。このエリア全体で見ると、中心部にJR京浜東北線、隣接して東急池上線・東急多摩川線の蒲田駅、東端に京急本線・京急空港線の京急蒲田駅がある。JR蒲田駅と、京急蒲田は道なりで約830m(徒歩11分)離れている。また、西端の先には、池上線の蓮沼駅がある。 町名としての「蒲田」に所在する鉄道駅は、JRの蒲田駅(東急の駅は西蒲田に所在)、京急本線の梅屋敷駅、京急蒲田駅である。蒲田駅周辺は空襲により太平洋戦争末期に焦土となり、復興の土地区画整理事業により現在の街並みの原型が形成された。街は京浜東北線により東西に分断され、北端は呑川、南端は東京都道311号環状八号線、西端は池上線、東端は第一京浜とする、おおよそ東西1.6km、南北800m程度のエリアに商業地が集中し、近隣に伸びる多摩堤通り、大城通り沿道付近にも一定の商業集積が見られる。都心から外れる地区では有数の繁華街、商業地区である。また、ランドマークとしてはJR駅東口近くにアロマスクエアおよびアプリコが、JR駅西口付近には、ユザワヤ、ドン・キホーテ、東急駅ビルの蒲田東急プラザがある。また、京急蒲田駅先には大田区産業プラザがある。 駅周辺は繁華街となっているが、商業地を抜けると高校や大学、専門学校なども多く、駅周辺の光景とは正反対の閑静で緑地の多いエリアが広がっている。また、特定機能病院である東邦大学医療センター大森病院(現在は大森西七丁目となっているが旧町名では本蒲田)、地域医療支援病院である東京蒲田医療センター(南蒲田二)、牧田総合病院(西蒲田八)をはじめ、病院や診療所など医療機関も充実している。 蒲田は古い地名で、かつては蒲田郷と呼ばれていた。927年の延喜式神名帳に荏原郡の社として蒲田の?田神社が上げられている。中世には、武蔵江戸氏の支流一族である江戸蒲田氏が蒲田郷を領地とした。後北条氏が作成した小田原衆所領役帳にも蒲田氏の一族が蒲田周辺を所領としていたことが記されている。 新編武蔵風土記稿によると、かつて蒲田は梅の木村と呼ばれ、梅の名所であった。江戸時代には歌川広重が蒲田の梅を描いており、蒲田梅屋敷と呼ばれた。現在でも蒲田の属する大田区の「区の花」は梅である。 1945年4月15日の空襲(城南空襲)により蒲田駅周辺は太平洋戦争末期に焦土となった。 1969年(昭和44年)11月16日、佐藤栄作首相(当時)の訪米を阻止しようとするデモ隊と機動隊が、国鉄蒲田駅(当時)東口付近で激突したほか京急蒲田駅でも火炎瓶が投げられる暴動状態となり(佐藤首相訪米阻止闘争)一帯は火の海と化した。逮捕者は1,600人を超える事態となった。また、学生の騒動に対し地元商店街の関係者が自警団を組織して対抗し、一部では衝突する騒ぎとなった[5]。 2019年(令和元年)10月1日、東京都は蒲田五丁目を暴力団排除条例に基づき暴力団排除特別強化地域に指定した[6]。地域内では暴力団員との間でみかじめ料のやりとりや便宜供与などが禁止され、違反者は支払った側であっても懲役1年以下または罰金50万円以下の罰則が科される[7]。
概要
歴史