蒲生秀行_(侍従)
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、安土桃山時代から江戸時代初期の大名について説明しています。戦国時代の武将については「蒲生秀行 (刑部大輔)」をご覧ください。

 凡例蒲生 秀行
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕天正11年(1583年
死没慶長17年5月14日1612年6月13日
改名鶴千代(幼名)
別名秀倶、秀朝、秀隆、羽柴秀行、通称:藤三郎、飛騨守
戒名弘真院殿覚山浄雲大居士
墓所福島県会津若松市門田町の弘真院
熊本県熊本市中央区横手の安国寺(供養塔)
官位従四位下飛騨守、侍従
幕府江戸幕府
主君豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
陸奥会津藩
氏族蒲生氏羽柴氏
父母父:蒲生氏郷、母:相応院織田信長の次女)
妻正室:振姫徳川家康の三女)
忠郷忠知崇法院加藤忠広正室)
テンプレートを表示

蒲生 秀行(がもう ひでゆき)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名陸奥会津藩主。
生涯
家督相続

天正11年(1583年)、蒲生賦秀(氏郷)(数年後「氏郷」に改名)の嫡男(次男あるいは長男)として生まれる。生来から病弱で、氏郷は同じ幼名を与えた鶴千代を京都南禅寺に入れてにし、修行させて武将の任に耐えられるようになったら世継ぎとし、耐えられないようなら僧として過ごさせると戒めていたという[1]

文禄4年(1595年)、父・氏郷が急死したために家督を継ぐ[1]。この時、羽柴の名字を与えられた[2]。総石高の過小申告について遺領相続問題が起こる。太閤豊臣秀吉の下した裁定は、会津領を収公して改めて近江に2万石を与えるというもので、相続を認めながらいったん所領を収封するとする説[3]と、相続を許可した後に老臣の不正が発覚したため、その所領を没収し堪忍分として近江に2万石を与えるという説[4]がある。徳川家康は鶴千代の岳父であり、秀吉にとって追及の狙いが家康にあったとする見方もある[4]。その後、関白豊臣秀次が会津領の相続を認めたことにより、一転して会津91万石の相続を許されたとも、秀吉の命で徳川家康の娘・振姫を正室に迎えることを条件に、改めて会津領の相続が許されたともされる[5][6]。なお、これを受けて5月に浅野長政の使者が派遣され、秀吉の命令として会津若松城と7つの支城(米沢城白河小峰城・田村城(守山城)・二本松城白石城津川城(のち豊臣預かり)・梁川城)以外の城は取り壊すように命じられ、徳川家康の指揮下で成田氏長大田原晴清が破却を担当している[7]。朱印状には五大老の前田利家と上杉景勝による秀行の補佐を条件に知行宛行が記されている[8]

文禄5年(1596年)、鶴千代は元服し、忠三郎(後に藤三郎と改称)と称した。諱については最初「秀朝」と称し、後に「秀隆」「秀行」と名乗ったと言われるが(『会津旧事雑考』)、現存する文書では慶長3年(1598年)頃に「秀隆」と名乗っていたことが判明するものの、それ以前の諱については「秀隆」の使用の有無を含めて不明である。『氏郷記』には慶長元年(1596年)に従四位下侍従に任じられたと記されているが、侍従への任官が文書上で確認できるのは慶長4年(1599年)以降で、秀行の任官を示す記録が存在しないため、実際の任官時期は不明である[9]

まだ若年の秀行は父に比べて器量に劣り、そのため家中を上手く統制できず、ついには重臣同士の対立を招いて御家騒動(蒲生騒動[注釈 1])が起こった[1]。秀吉は事態を重く見て、前田利家に調停を任せた。また、同じく上杉景勝には津川城に城将を入れるよう命じ、不測の事件発生に備えた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:30 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef