蒲生氏郷
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例蒲生 氏郷
西光寺蔵
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕弘治2年(1556年
死没文禄4年2月7日1595年3月17日
改名鶴千代(幼名)→賦秀または教秀(初名)[注釈 1]→氏郷
別名通称:忠三郎、飛騨守、琉球守、松ヶ島侍従、松坂少将
戒名昌林院殿高岩宗忠大居士
霊名レオン(レオ)
墓所大徳寺黄梅院京都市北区
興徳寺福島県会津若松市
官位従四位下侍従正四位下左近衛少将従三位参議
主君織田信長豊臣秀吉
氏族蒲生氏藤原姓
父母父:蒲生賢秀
母:おきり(後藤播磨守の妹)
兄弟氏郷、重郷、妹(布施忠兵衛→関一政室)、妹(田丸直昌室)、妹(小倉行春室)、三条殿(とら。豊臣秀吉側室)
正室相応院織田信長次女)
子籍(前田利政正室)、武姫(お武の方、源秀院、南部利直正室)、氏俊、秀行
養女:三の丸殿(豊臣秀吉側室)
テンプレートを表示

蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。

蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(やすひで)[1]または教秀(のりひで)。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン[2](レオ[2]、またはレアン[3])。子に蒲生秀行

織田信長に人質ながらも寵愛され、信長の娘である冬姫を娶る。信長死後には各地で功績を挙げ、秀吉からも重用された。最終的には会津藩92万石となり黒川城を与えられ、改築して若松城と名を改め、会津藩の基盤を築いた。また、千利休の弟子であり、利休七哲にも数えられる一流の茶人でもあった。
出自詳細は「蒲生氏」を参照

蒲生氏藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという[4][5]

ただし、蒲生氏などの近江関係の系図には沢田源内椿井政隆による偽書・偽文書の影響を受けているものもあって同時代史料との比較検討を必要とする、という見解もあり、氏郷の祖先で確実に動向が追えるのは15世紀初めの蒲生秀兼以降とされる[6]
生涯
織田家臣時代

近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれる[7]。幼名は鶴千代と名付けられた。

永禄11年(1568年)、観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従した[8]。鶴千代と会った信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん(蒲生の息子の瞳は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう)」と言い、自身の次女を娶らせる約束をしたという(『蒲生氏郷記』)[8]

鶴千代は岐阜瑞竜寺の禅僧・南化玄興に師事し、儒教や仏教を学び、斎藤利三の奨めで武芸を磨いた[9]岐阜城での元服の際には信長自らが烏帽子親となった、弾正忠信長の「忠」の文字を与えられ忠三郎賦秀[注釈 2]と名乗る[8](以降、一部を除いて氏郷に統一する)。

永禄12年(1569年)の南伊勢大河内城の戦いにて14歳で初陣を飾る[8][注釈 3]。戦後、信長の次女を娶って日野に帰国した[11][12]。なお、この妻の実名は不詳であり、冬姫とするのは明らかな誤読である[13]。谷徹也は『藩翰譜』の誤読に由来するとしている[6]

元亀元年(1570年)4月、氏郷は父・賢秀と共に柴田勝家与力となり一千余騎で参陣し[14]朝倉氏を攻め、同年に当知行が安堵され(『隠心帖』)、5,510石の領地が加増された(『蒲生文武記』『氏郷記』)[15]。その後、同年7月の姉川の戦い、元亀2年(1571年)の第一次伊勢長島攻め、元亀4年(1573年)4月の鯰江城攻め、天正元年(7月28日に元亀から天正に改元)8月の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の第二次伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正6年(1578年)からの有岡城の戦い、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱(比自山城の戦い)などに従軍して、武功を挙げている。
本能寺の変以降

天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により自刃すると、氏郷は安土城にいた賢秀と連絡し、城内にいた信長の一族を保護し、賢秀と共に居城・日野城(中野城)へ走って乗物50丁、鞍つき馬100頭、伝馬200頭を支度して明智光秀に対して対抗姿勢を示した[16]。光秀は明智光春武田元明京極高次らに近江の長浜佐和山安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈であったが、直前に山崎の戦いで敗死した。同年、家督を相続する[注釈 4]。なお、盛本昌弘が安土城を撤退する際に氏郷が安土の城下町に放った火が類焼して安土城に炎上したとする説を発表している[18]が、この説に対して谷徹也は安土城の発掘調査では被熱痕は主郭部からしか確認できないため、城下町からの類焼には懐疑的で盛本説は成立しがたいとする[19]

その後は清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。戦後、亀山城を与えられるが、自身は入城せず、家臣の関盛信を置いた[20]

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは3月に滝川一益・浅野長吉甲賀衆等と共に峰城、4月に戸木城、5月に加賀野井城を攻めた。特に加賀野井城攻めで籠城衆を殲滅するなどの戦功を挙げる。同年8月の菅瀬合戦では氏郷は敵の侵入を知らせる銃声を聞き、軍勢も揃えず松ヶ島城外に打って出た。敵の木造氏は氏郷の行動を熟知しており、鉄砲で狙撃したため、鯰尾兜に弾丸が三つも当たったという(『氏郷記』『勢州軍記』)[21]。その後は別働隊として羽柴秀長らと共に織田信雄を監視し、羽柴軍撤退の際は殿を務めた。戦後、伊勢松ヶ島12万石に加増・転封となり[22]、秀吉から「羽柴」の苗字を与えられる[1][23]ルイス・フロイスの『耶蘇会年報』によると、この頃、大坂にてキリスト教の洗礼を受けるとあるが、『十六・十七世紀イエズス会日本報告書』には天正13年(1585年)に大坂でオルガンティノから洗礼を受けレオンの霊名を称したとある[2]。一方で、伊勢の領主である氏郷の受洗は伊勢神宮を始めとする旧勢力の危機感を高め、伴天連追放令の一因になったとする研究もある[24][25][26]

天正13年(1585年)の紀州征伐第二次太田城の戦い)や富山の役にも参戦。この頃に賦秀から氏郷(うじさと)と名乗りを改めているが[1]、これは“秀”吉の諱の一字を下に置く「賦秀」という名を憚ったと『氏郷記』は伝える。なお、「賦秀」の名が記された文書上の終見は天正13年3月で、同年閏8月には一旦「賦綱」の署名を用いているものの、9月以降は「氏郷」に統一されているため、同年7月の秀吉の関白任命を受けて急遽改名したと推測される[19]。天正14年(1586年)、従四位下・侍従に任じられる[1]

天正15年(1587年)の九州征伐では前田利長と共に熊井久重が守る岩石城を落とす活躍を見せた[27]。天正16年(1588年)には伊勢国飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城[28]。寺院を町の外側に置き、町筋を直線ではなく角を要所に造って一度に多くの敵兵が攻め込めないようにし、松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた[29]。同年4月15日、正四位下・左近衛少将に任じられ[28]豊臣姓(本姓)を下賜された[30]。天正17年(1589年)の方広寺大仏殿(京の大仏)の石組工事で、五条橋大門角石用の二間四方の石を近江国大津の三井寺の上から切り出して、重臣達が笛や太鼓で拍子を取って京都まで運んだ。その石は、諸大名が運んだものの中で最大であったという[31]。この年の7月には領内で検地を行い、織田信雄時代に残されていた貫高制から石高制に統一した[32]

天正18年(1590年)の小田原征伐では、討死を覚悟して肖像画を残して出陣した[要出典]。韮山城を落とした後、小田原城包囲軍に参加。包囲中、7月2日の夜に敵将の太田氏房から夜襲を受ける[33]。この時、氏郷は陣を回っていたため、甲冑を着る余裕がなく、近くにいた北川平左衛門の甲冑を借り[34]、たった一人、乱戦の中で槍を抱えて敵の背後に回り、敵兵を次々と討ったという。戦後に「三階菅笠」の馬印の使用許可を得た(『常山紀談』)[注釈 5]
奥州入り

一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥国会津に移封され42万石[35](のちの検地・加増により91万石[35])の大領を与えられた(会津40万石、中通り20万石弱、置賜・信達30万石、白石1万石余。越後小川荘10万石は豊臣蔵入地)。黒川城を改築し若松城と改める。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であり、当初は細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされる[35]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:100 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef