蒲生氏郷
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 凡例蒲生 氏郷
西光寺蔵
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕弘治2年(1556年
死没文禄4年2月7日1595年3月17日
改名鶴千代(幼名)→賦秀または教秀(初名)[注釈 1]→氏郷
別名通称:忠三郎、飛騨守、琉球守、松ヶ島侍従、松坂少将
戒名昌林院殿高岩宗忠大居士
霊名レオン(レオ)
墓所大徳寺黄梅院京都市北区
興徳寺福島県会津若松市
官位従四位下侍従正四位下左近衛少将従三位参議
主君織田信長豊臣秀吉
氏族蒲生氏藤原姓
父母父:蒲生賢秀
母:おきり(後藤播磨守の妹)
兄弟氏郷、重郷、妹(布施忠兵衛→関一政室)、妹(田丸直昌室)、妹(小倉行春室)、三条殿(とら。豊臣秀吉側室)
正室相応院織田信長次女)
子籍(前田利政正室)、武姫(お武の方、源秀院、南部利直正室)、氏俊、秀行
養女:三の丸殿(豊臣秀吉側室)
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蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。

蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(やすひで)[1]または教秀(のりひで)。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン[2](レオ[2]、またはレアン[3])。子に蒲生秀行

織田信長に人質ながらも寵愛され、信長の娘である冬姫を娶る。信長死後には各地で功績を挙げ、秀吉からも重用された。最終的には会津藩92万石となり黒川城を与えられ、改築して若松城と名を改め、会津藩の基盤を築いた。また、千利休の弟子であり、利休七哲にも数えられる一流の茶人でもあった。
出自詳細は「蒲生氏」を参照

蒲生氏藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという[4][5]

ただし、蒲生氏などの近江関係の系図には沢田源内椿井政隆による偽書・偽文書の影響を受けているものもあって同時代史料との比較検討を必要とする、という見解もあり、氏郷の祖先で確実に動向が追えるのは15世紀初めの蒲生秀兼以降とされる[6]
生涯
織田家臣時代

近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれる[7]。幼名は鶴千代と名付けられた。

永禄11年(1568年)、観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従した[8]。鶴千代と会った信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん(蒲生の息子の瞳は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう)」と言い、自身の次女を娶らせる約束をしたという(『蒲生氏郷記』)[8]

鶴千代は岐阜瑞竜寺の禅僧・南化玄興に師事し、儒教や仏教を学び、斎藤利三の奨めで武芸を磨いた[9]岐阜城での元服の際には信長自らが烏帽子親となった、弾正忠信長の「忠」の文字を与えられ忠三郎賦秀[注釈 2]と名乗る[8](以降、一部を除いて氏郷に統一する)。

永禄12年(1569年)の南伊勢大河内城の戦いにて14歳で初陣を飾る[8][注釈 3]。戦後、信長の次女を娶って日野に帰国した[11][12]。なお、この妻の実名は不詳であり、冬姫とするのは明らかな誤読である[13]。谷徹也は『藩翰譜』の誤読に由来するとしている[6]

元亀元年(1570年)4月、氏郷は父・賢秀と共に柴田勝家与力となり一千余騎で参陣し[14]朝倉氏を攻め、同年に当知行が安堵され(『隠心帖』)、5,510石の領地が加増された(『蒲生文武記』『氏郷記』)[15]。その後、同年7月の姉川の戦い、元亀2年(1571年)の第一次伊勢長島攻め、元亀4年(1573年)4月の鯰江城攻め、天正元年(7月28日に元亀から天正に改元)8月の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の第二次伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正6年(1578年)からの有岡城の戦い、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱(比自山城の戦い)などに従軍して、武功を挙げている。
本能寺の変以降

天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により自刃すると、氏郷は安土城にいた賢秀と連絡し、城内にいた信長の一族を保護し、賢秀と共に居城・日野城(中野城)へ走って乗物50丁、鞍つき馬100頭、伝馬200頭を支度して明智光秀に対して対抗姿勢を示した[16]。光秀は明智光春武田元明京極高次らに近江の長浜佐和山安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈であったが、直前に山崎の戦いで敗死した。同年、家督を相続する[注釈 4]。なお、盛本昌弘が安土城を撤退する際に氏郷が安土の城下町に放った火が類焼して安土城に炎上したとする説を発表している[18]が、この説に対して谷徹也は安土城の発掘調査では被熱痕は主郭部からしか確認できないため、城下町からの類焼には懐疑的で盛本説は成立しがたいとする[19]

その後は清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。


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