蒲生君平
[Wikipedia|▼Menu]
蒲生君平(小堀鞆音画)

蒲生 君平(がもう くんぺい、明和5年〈1768年〉 - 文化10年7月5日〈1813年7月31日〉)は、江戸時代後期の儒学者天皇陵を踏査して『山陵志』を著した尊王論者、海防論者としても知られる。同時代の仙台藩林子平上野国郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)[1]。姓は、天明8年(17歳)に祖先が会津藩蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を身重のため宇都宮に残し、それから4代目が父の正栄という)に倣い改めた。君平はで、は秀実、通称は伊三郎。に修静庵。
生涯
幼年期生誕の地

下野国宇都宮新石町(栃木県宇都宮市小幡一丁目)の生まれ[2]。父は町人福田又右衛門正栄で、油屋と農業を営む[3]。祖母から祖先が立派な武士(蒲生氏郷)だと聞かされた[2]時「幼い胸は高鳴り感激で夜も眠れないほどだった、しかし今は町人の子でどうにもならない、学問で身を立て立派な祖先に恥じない人になる決意をした」。6歳の頃から近所の泉町にある延命院で、時の住職・良快和尚の下で読書、習字、四書五経の素読を学び、この折に筆写した蒲生氏の『移封記』が今も伝えられる。君平の読書好きは、近所の火事の明かりの元、屋根に上って読書をしたという逸話にも伝えられる。良快和尚は君平9歳の折に死去するが、その後も延命院で修学したとされる。
青年期

天明2年(1782年[2]14歳の時、鹿沼の儒者鈴木石橋の麗澤舎に入塾した[3]昌平黌で学んだ石橋は当時29歳であった。君平は、毎日鹿沼まで3里の道を往復し、国史・古典を学んだ[3]黒川の氾濫で橋が流されても素裸になって渡河し、そのまま着物と下駄を頭の上に乗せて褌ひとつで鹿沼宿の中を塾まで歩き、「狂人」と笑われるなど生来の奇行ぶりを発揮したが、師・石橋は君平の人柄をこよなく愛した。塾では『太平記』を愛読し、楠木正成新田義貞らの後醍醐天皇への忠勤に感化され、勤皇思想に傾斜した。天明5年(1785年)頃、石橋の紹介で黒羽藩士の鈴木為蝶軒に為政を学んだ[4]

君平はしばしば水戸に往来し、立原翠軒の仲介で[4]水戸藩藤田幽谷と交わり、生涯にわたって互いに影響しあう関係にあった[3][注釈 1]。水戸ではほかに木村謙次高橋坦室らと交流した[4]寛政元年(1789年)、江戸に上り山本北山に入門し、太田錦城清水赤城らと交わった[4]。寛政2年(1790年)、23歳の時、高山彦九郎を慕ってその後を追い、陸奥を旅し、帰路、当時53歳の林子平を仙台城下に訪ねた[注釈 2]。その際、子平は君平の名を知っていたが、君平のあまりに粗末な身なりを見て、銭でも乞いに来たのかと思い「落ちぶれ儒者、その無様さは何だ」と言って笑った。そこで君平は憤然とし、「この山師じじいめ礼儀も知らず尊大ぶるな」と怒鳴って引き返したという、寛政の奇人同士の出会いとして有名な逸話がある[注釈 3]。また錦城と交流のあった松川岐山を慕って足利学校を訪ねたが、岐山は既に死去しており会うことはできなかった[4]
海防調査と天皇陵調査の旅

寛政4年(1792年)、『今書』2巻を著して時弊を論じた[3]ロシア軍艦の出現を聞き、寛政7年(1795年)には北辺防備の薄さを憂えて再び陸奥への旅に出た[3]。道中北辺防備を憂える亀掛川子貫(岐山と同郷)、大原呑響、藤塚知明らと対面した[5]。帰路、会津で先祖蒲生氏郷・蒲生帯刀の墓に額づいている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef