葺石
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復元された葺石で覆われた五色塚古墳神戸市)の後円部

葺石(ふきいし)とは、主として古墳時代の墳墓の遺骸埋葬施設や墳丘を覆う外部施設の1つ[注釈 1]で、古墳の墳丘斜面などに河原石や礫石(れきいし)を積んだり、貼りつけるように葺(ふ)いたもの。「葺き石」の表記もみられる。その祖形は弥生時代墳丘墓弥生墳丘墓)に認められる。前期古墳と中期古墳に多いが、後期は葺石をともなわない古墳が大多数をしめる。
概要

葺石は、二段ないし三段に築成された古墳の墳丘斜面のほか、円墳の墳裾を全周するもの[注釈 2][2]、また、前方後円墳の後円部・くびれ部に施されるものがあり、その箇所は一定しないが、墳丘に段築工法が採用された場合には、その各段の斜面にほどこされる場合が多い[3]。その場合、それぞれの段の平坦な面は概ね土がむき出しの状態であるのに対し、斜面にはすき間なくが充填される。規模の面では、前方後円墳のうち墳丘長100メートル以下のものにあまり多くみられないのに対し、規模の大きなものは葺石をともなうケースが多い[4]。また、関東地方以北にあっては、規模とは関係なく古墳に葺石をともなわない場合も多い[注釈 3][5]「昼は人作り、夜は神作る」の伝承で知られる箸墓古墳国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)

日本の墳墓においては、中国の墳墓に顕著にみられる版築の工法がほとんどみられない一方で、斜面を礫石などで葺いてがっしりと安定させる手法が採用されており、この工法は日本列島独自のものである[6]

葺石の発生について森浩一は、1985年(昭和60年)の著作で
外見上は高句麗積石塚のような墳墓を築くという意識や伝統の現れとみる見解

阿波(いまの徳島県)の吉野川流域や瀬戸内海沿岸など日本の古い積石塚の分布する地域で工夫されたとする見解

の両説があることを紹介しており、後者については、古くから瀬戸内および四国地方には石工集団がおり、石に関する知識が特に豊富であったことを指摘している[注釈 4][6]

なお、『日本書紀』と『古事記』には、箸墓古墳奈良県桜井市)の造営の際、大坂山[注釈 5]の石をリレー方式で運んだという説話[注釈 6]が記されているが、このとき運ばれたのは葺石のための石材であったと考えられる[7]
葺石の出現と祖形葺石の原型になったと考えられる西谷3号墓(出雲市)の貼石

葺石墓は、弥生時代中期以降の西日本に点々とみられ、古墳時代へとつながっていく[注釈 7][9]。とくに一般的に「定型化された大型前方後円墳」の最古の例と考えられている箸墓古墳および若干それに先立つとみられるホケノ山古墳(奈良県桜井市)では葺石をともなうことが確認されており、葺石は、出現期古墳の特徴を示す一要素となっている[10]。なお、定型化以前の、いわゆる「纒向型[注釈 8]と称される墳墓では、纒向石塚古墳纒向勝山古墳東田大塚古墳いずれの場合でも埴輪・葺石はともなっていない。

葺石の祖形のひとつとして掲げられることの多いのは、弥生時代の山陰地方にみられる四隅突出型弥生墳丘墓にみられる貼石(はりいし)である[11]島根県出雲市西谷墳墓群3号墓では、墳丘の裾部分を全周するかたちで貼石がなされている。また、岡山県総社市楯築遺跡では墳丘に石列をめぐらせており、このような例は山陰・山陽で広くみられる[11]。さらに、山陽地方においては、石垣状に積んで墳丘を画する例もみられる[注釈 9]
「葺石」の用語のはじまり葺石で復元された宮崎市生目古墳群5号墳。3世紀後半-4世紀前半の前方後円墳。手前には地下式横穴墓(復元)がある。生目古墳群は1943年史跡指定をうけている。

1915年大正4年)、宮崎県児湯郡(現西都市)の西都原古墳群のうち、第21号塚の発掘調査をおこなった今西龍は、その調査報告書のなかで「表面の葺石」の項目を設け、前方部の平面図と断面図に葺石分布の状態を記述している[13]

「葺石」の語が考古学用語として定着したのは、1922年(大正11年)の高橋健自による『古墳と上代文化』によるところが大きい。そのなかで高橋は、畿内古墳における実例を紹介しながら、葺石を「実用と装飾とを兼ねたもの」と説明している。「実用」に関して高橋は「封土をそのままにして置けば風雨の為に流出し、寒気の為に剥離する憂があるから、礫石を以て之を保護」しようとしたもの、また、「装飾」に関しては「墳丘に美観を添える為」であり「墳丘を営むことは既に地上に目標を設けたのである。果たした然らば衆目を惹くべく顕著ならしめ、来詣者をして敬虔の念を起さしむべく荘厳ならしめる」目的で造られたものと指摘している[14]
葺石の調査岡山県月の輪古墳。専門家・市民・学生らが一体となって発掘調査をおこなう「月の輪方式」で有名になった。

戦前の発掘調査においては、葺石そのものを精査する作業は皆無に等しかった。葺石研究に科学的な検証作業が採り入れられ、また入念に図化作業がなされるようになったのは戦後の学術調査においてであった[15]

1953年(昭和28年)、近藤義郎を中心に岡山県美咲町(当時飯岡村)の月の輪古墳の発掘調査がなされ、高さ10メートル、直径60メートルの規模を有する古墳全体の4分の3の外表面が調査された。1960年(昭和30年)刊行の報告書では、葺石分布の範囲、形・大きさ、岩石学的検討、葺き方の技術的検討などが報告され、構成する石は1個単位で丹念に図示されており、月の輪古墳で使用された石の数は総数約8万個と推定している[16]

戦後急増した、遺跡の破壊をともなう大規模開発にかかわる緊急発掘調査では、記録を保存するためにかえって徹底的な調査がおこなわれることとなった。このような調査の初期の成果としては、原口正三と西谷正による大阪府高槻市の弁天山C1号墳の調査がある。1967年(昭和42年)刊行の弁天山古墳群の発掘調査報告書では、葺石の積み方、単位面積あたりの使用個数と重量測定、葺石の石材採取地と搬入ルートの探索などの検討がなされており[17]、これについて青木敬は、そののち本報告書以上に葺石について検証作業を積み重ねて調査成果をあげた報告書はほとんど現れなかったと述べている[15]復元された次郎兵衛塚一号墳岐阜県可児市)の葺石は河原石で葺かれていた。

葺石の調査については、こんにち本格的な土木技術に関する知識が要求されるようになってきている[18]。また、科学的な定性化・定量化の可能な調査記録の方法として、石塚久則は、


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