葦津珍彦
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葦津 珍彦(あしづ うずひこ、1909年〈明治42年〉7月17日 - 1992年〈平成4年〉6月10日)は、日本の神道家。民族派の論客としても著名であった[1]
経歴

葦津耕次郎の長男として福岡県筥崎(現・福岡市東区箱崎)に生れる。葦津家は筥崎宮社家の一つである大神家の末裔であり、伯父である葦津洗造は同宮の宮司であった[2]1922年(大正11年)東京府立第五中学校に入学。この頃から社会主義に憧れ、関連する書物を読み漁ったという[2]。周囲はこれを心配し、卒業後は國學院大學に進んだ[要出典]。別に東京外国語学校(現:東京外国語大学)にも入学するが、いずれも退学した[要出典]。1928年(昭和3年)には福島高等商業学校(現・福島大学)に入学するも、翌年退学。この間、社会主義から、父と同じ「祭政一致の天皇国日本」実現を理想とする伝統保守の尊皇神道へ転じた[要出典]。

1932年(昭和7年)、父の営んでいた事業を継いで社寺工務所の代表として神社建築業に従事する[要出典]。この時期、頭山満今泉定助高山昇緒方竹虎内田良平井上孚麿らと交流をもち、太平洋戦争が始まる前は、この戦争を「必敗の戦い」であるとして反対運動を行い、開戦後は開戦の詔勅に示された「やむにやまれぬ独立国としての存続を確保する」戦争目的のみを守り続けることを主張するなど、独自の政治的活動を展開した[要出典]。戦時中には日本の同盟国であったナチス・ドイツや、東條英機内閣の政策を批判する論文が発禁となり、逮捕された事もあった[要出典]。

戦後すぐ会社を解散し吉田茂内務省出身)、宮川宗徳(のち本庁事務総長)や、徳川宗敬(のち本庁統理)らを補佐し、神社本庁の設立に尽力し、さらに本庁の教学広報の一環として『神社新報』が創刊されると、主筆と共に発行母体の神社新報社[3]の経営も引き受けた。

1968年(昭和43年)の退職後も執筆活動や後学の指導にあたり、国体護持・神社護持運動の最前線にあって、神道界(日本を守る国民会議を経て、現:日本会議)や民族派運動日本青年協議会)、などに大きな影響を与え続けた。一方で戦時中自らが批判していた東條らA級戦犯の合祀には敗戦の責任から疑義を呈していた[4](なお、靖国神社は神社本庁の別表神社ではない)。1992年(平成4年)、鎌倉市の自宅にて死去。享年82。

葦津との論争の経験もある橋川文三は、葦津を「保守派中の先鋭なポレミスト」と評した上で、その天皇制論を「伝統的右翼者流の水準をこえたものとして注目される」とし、天皇制の問題を欧州政治思想史の研究を背景とする比較制度論的見地からとらえようとする、いわば「国体論」の開かれた形態を追求する点が特徴である[5]としている。

大石義雄は、『憲法二十年』(1966年)で葦津の『土民のことば』を称賛し、葦津を「今様北畠親房」と表現した[6]

戦後は『思想の科学』編集者でもあった市井三郎鶴見俊輔、論客竹内好などとも思想的立場を超え交友があり、同誌にもしばしば寄稿していた。

また、朝鮮文化にも造詣が深く、日本統治時代の朝鮮における独立運動家だった呂運亨とも交流があった。葦津は、朝鮮大学校を訪問した際、応接室の真ん中に金日成の肖像が飾られているのを見て感激し、「今の日本人にはこれがないからだめなんだ。かつては天皇陛下の『御真影』がどこの学校にも奉られていた、あの状況をまた取り戻さなきゃあ」と述べたという[7]
親族大三輪奈良太郎(後列中央)

父・葦津耕次郎(1878-1940) - 神道家[8]筥崎宮に奉職し神明奉仕に励み、後には鉱山業や社寺建築業を営む実業家として活躍する一方、朝鮮神宮御祭神論争など神道・神社の見地から時の政治・社会問題に発言する言論人としても活躍[9]。民間の神道人として活動しつつ、玄洋社頭山満と親交を結ぶなど独自の活動をした[10]。著書に『日支事変の解決法』[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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