董承
献帝を守る董承と楊奉
後漢
車騎将軍
死去建安5年1月9日壬午(200年2月11日)
許昌
?音D?ng Cheng
主君牛輔→献帝
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董 承(とう しょう[1]、? - 200年2月11日(建安5年1月9日壬午)[2])は、中国後漢末期の武将。
素性は諸説があるが、一般的には献帝の祖母である孝仁董皇后の甥[3]とされる。しかし、後世の歴史家からはその親族関係は疑問であると指摘されている[4]。娘は献帝の貴人(側室)。 董承は、元々董卓の娘婿牛輔の部曲であった[5]。董卓死後、長安における権力争いの中に、具体的な事跡は不明だが、董承も身を置いていたと見られる。 興平2年(195年)7月、張済の仲介により、李?・郭ら旧董卓軍の将軍たちの間で和解が成立し、献帝が洛陽へ帰還することになった時、董承は安集将軍に任命された。帰途の同年11月、郭が謀反して献帝を奪おうとしたため、楊定・楊奉がこれを撃ち破った。郭は、献帝を奪い返そうとする李?と合流した。 その後、献帝一行が華陰に至ると、同地を統治していた段?が一行を出迎え、献帝を自陣に迎え入れようとした。しかし、段?と元々仲が悪かった楊定・?輯が反対し、董承も楊定に与して「郭の軍が段?の兵営に入りました」と献帝に讒言したため、ついに一行は華陰を離れることになった。なお段?には、献帝を独占しようという野心は無かった。この後、段?と交戦状態になった楊定は、追撃してきた李?・郭にまで挟撃され、進退窮まって荊州へ逃げている[6]。 その後、張済も董承・楊奉との対立の末に叛逆し、李?・郭軍に加わった。董承・楊奉らは、李?・郭・張済連合軍と東澗で戦ったが敗北した。それでも曹陽澗まで至ったところで、董承は楊奉と共に、白波帥の胡才・李楽・韓暹、さらには南匈奴の左賢王去卑に呼びかけ、これらを援軍として得ることに成功し、李?・郭・張済軍を破っている。 しかしその翌月、執拗に追撃してきた李?・郭・張済軍に、董承・楊奉らはまたしても敗れてしまった。水路を使って逃げる途中、多くの官人たちが船に縋り付いてきたが、董承は矛でこれを撃ち払ったため、官人たちの斬られた手指が船中に転がった。献帝一行は僅か数十人となってしまったが、先行していた李楽や張楊、河東太守王邑らの救援のおかげで、何とか安邑まで逃れた。 同年7月、献帝が洛陽へ到着すると、董承は韓暹と共に宿衛の任に就いた。しかし、韓暹の専横を恐れた董承は、密かに曹操を召し寄せ、その威を借りて韓暹・楊奉・張楊らを追い落とすことに成功している。同年8月、董承は列侯に封じられた。建安4年(199年)3月、董承は車騎将軍に任命され、車騎将軍府を開いた[9]。 董承は、次第に権力を強大化させる曹操を恐れた献帝により下賜された服の帯に忍ばせた曹操を誅殺せよとの密勅を受け[10]、同志(王子服・呉碩・呉子蘭[11]・?輯・劉備など)を集めて謀議を図った。しかし建安5年(200年)正月、計画は事前に発覚し、董承一族やその一派は捕らえられ処刑された。彼の娘の董貴人も妊娠中だったが、それでも曹操は彼女をも殺した。 小説『三国志演義』では医師の吉平とのやり取りと、召使との争いから計画が外部に洩れるという筋書きが追加されている。また、事件から20年以上後に、病床の床に伏した曹操を、亡霊となった董承らが枕元に立ち苦しめるという逸話が脚色されている。董承の妹は「董貴妃」と呼ばれている。 なお、董承の忠臣としての性格を強調付けるためか、董承の出身母体や洛陽帰還時の政争等について、『演義』では欠落している部分が多い。特に、縋り付く官人たちの手指を斬り払って脱出した史実の件に至っては、『演義』では李楽の仕業に置き換えられている。
正史の事跡
洛陽帰還行
一族の最期と共に要害を守備し、曹洪の進軍を阻んだ[8]。またその翌月、今度は献帝一行に付き従っていた将軍たちの間で争いが発生し、韓暹が董承を攻撃した。このため董承は張楊を頼って逃れ、張楊の指示により洛陽へ先行して向かい、宮殿を修繕した。
物語中の董承
脚注[脚注の使い方]^ 吉川英治の『三国志』では、とうじょうとなっている。
^ [1]
^ 『三国志』蜀書2先主伝の裴松之注は「董承は霊帝の生母の董太后の姪(てつ、(甥のこと)である」とする見解を示している。
^ 『先主伝集解』および盧弼
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