董憲
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董 憲(とう けん、? - 30年)は、中国代から後漢時代にかけての武将。徐州東海郡の人。目次

1 事跡

1.1 初期の事跡

1.2 劉紆軍重鎮として

1.3 最期


2 脚注

3 参考文献

4 関連項目

事跡

姓名董憲
時代
代 - 後漢時代
生没年生年不詳 - 30年建武6年)
字・別号〔不詳〕
本貫・出身地等徐州東海郡
職官別部校尉〔樊崇〕

→翼漢大将軍〔劉永〕 
爵位・号等海西王〔劉永〕
陣営・所属等樊崇→〔独立勢力〕→劉永

劉紆→〔独立勢力〕
家族・一族〔不詳〕

初期の事跡

東海郡を根拠地とした新末後漢初の群雄の一人で、後に、梁で天子を自称した劉永、そしてその子の劉紆に仕えた。

初めは赤眉軍の別部校尉(別働隊隊長)で、数万人の軍勢を率いて梁郡で活動していた。地皇3年(22年)冬、赤眉軍を討伐に来た新の更始将軍・平均公廉丹と太師王匡の軍勢と成昌(東平郡)で戦い、これを撃破して、廉丹を討ち取っている[1]

その後、樊崇率いる赤眉軍本隊からは離脱した模様で、東海郡で群雄の一人として割拠している。そして、梁を支配していた劉永の統治を受け入れ、翼漢大将軍に任命された。これ以降は、梁の将軍として活躍する。建武3年(27年)2月には、梁で天子となった劉永から海西王に封じられている。
劉紆軍重鎮として

同年秋、漢軍との戦いで劉永が戦死すると、その子の梁王劉紆の陣営でも、董憲は梁軍の重鎮と目される。翌建武4年(28年)7月、董憲の部将の賁休が、蘭陵(東海郡)を漢軍に献上して降伏したが、董憲は素早く蘭陵の奪回に動き、城を包囲する。漢軍は、虎牙大将軍蓋延と平狄将軍?萌の軍を賁休の援軍に送り込んだが、董憲はこれを撃退し、ついに蘭陵を陥落させた。翌建武5年(29年)3月には、?萌が漢に反逆して董憲に帰順している。

ここに至り、光武帝は親征により董憲ら梁軍を討伐した。同年6月、桃城(東平郡)を包囲していた蘇茂、?萌を撃破した光武帝は、7月、昌慮(東海郡)まで進軍し、董憲はこれを迎撃したが大敗した。さらに8月には、漢の大司馬呉漢の猛攻を受けて敗退し、劉紆を守って?(東海郡)へ逃げ込む。しかし城は陥落させられて劉紆も殺され、董憲は?萌と共に?(東海郡)に追い込まれてしまう。
最期

建武6年(30年)、董憲と?萌は密かに?を脱出して、?楡(東海郡)を奪取したが、これを察知した琅邪太守陳俊に攻撃され、沢中へ逃れている。同年2月、?は呉漢により陥落させられ、董憲の妻子は捕縛された。これを知った董憲は涙ながらに部下に謝罪し、?萌と共に漢に降伏しようとしたが、追撃してきた呉漢配下の校尉韓湛に斬られている。董憲と?萌の首級は、洛陽に送られた。
脚注

[脚注の使い方]
^後漢書』劉盆子伝によれば、廉丹は無塩(東平郡)で戦死している。

参考文献

後漢書』列伝2 劉永伝

同 本紀1上 光武帝紀上

漢書』巻99下 列伝69下 王莽伝下

関連項目

新末後漢初

赤眉軍


更新日時:2021年5月26日(水)03:45
取得日時:2021/06/26 02:09


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