董 卓
後漢
相国・太師
出生永和4年(139年)?[1]
涼州隴西郡臨?県
死去初平3年4月23日(192年5月22日)
司隷京兆尹長安県
?音D?ng Zhuo
字仲穎
主君桓帝→霊帝→少帝弁→献帝
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董 卓(とう たく)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は仲穎(ちゅうえい)。涼州隴西郡臨?県の人。
辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、少帝弁を廃して献帝を擁立し、一時は宮廷で権勢をほしいままにしたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子になっていた呂布に殺された。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。 生まれつき武芸に秀で、腕力が非常に強く、弓袋を馬の両側につけて馬を馳せながら左と右の両方の手で弓を引くことができたという。 若いころは男伊達を気取って、羌族ら異民族の居住地を放浪し顔役らすべてと交流した。後に郷里に戻り農耕に従事したが、羌族の顔役たちが面会に来ると、董卓は農耕に使う耕牛を殺し、その肉で宴会をしてもてなした。族長はとても感激し、帰ると董卓に畜獣千頭を贈ったという。 その後、郡の役人となり盗賊を取り締まった(『呉書』)。胡が侵入し略奪をし、多くの住民が拉致されたことがあった。涼州刺史の成就は董卓を従事に取り立て[2]、董卓に騎兵を率いて胡を討伐させたところ、董卓は大勝し、4桁の数の胡を斬ったり捕虜にしたりした(『呉書』)。
生涯
青年期と地方官時代
桓帝の末年、六郡の良家の子弟から郎を選ぶことになると、董卓は羽林郎となった。武勇にすぐれる董卓は張奐の率いる并州征伐軍に司馬として従軍し、反乱を起こした羌族と戦い、張奐軍は族長を斬り1万人余りを捕斬する大勝となった。この功績により董卓は郎中に任命され、絹9千匹を賜ったが、それを全て部下に分け与えた[3]。
広武令・蜀郡北部都尉・西域戊己校尉まで昇進し免官となったが、その後、并州刺史・河東太守などを歴任した。この間、辺境で羌族と戦い続け、その回数は百回を越えていたという(『英雄記』)。
この時期、田を耕していると一振りの刀を見つけ、これを蔡?に見せたところ項羽の刀であったという伝承がある(南朝梁・陶弘景『古今刀剣録』)。 中平元年(184年)、昇進して中郎将(『後漢書』「董卓伝」によると持節・東中郎将)に任命され、盧植の後任として黄巾賊を討伐に出るも敗退して、免職となった。 同年冬、涼州で金城郡の辺章・韓遂らが羌・胡の協力を得て反乱を起こすと、翌中平2年(185年)、董卓は再び中郎将に返り咲き、副車騎将軍の皇甫嵩と共に乱の追討に向かった(『後漢書』「董卓伝」)。後に皇甫嵩が罷免されると、司空の張温が車騎将軍に任じられ執金吾の袁滂
涼州で牙を研ぐ
張温は周慎・孫堅らに命令して城に籠った韓遂らを攻撃させる一方で、董卓には羌族の攻撃を命じた。しかし、董卓は数万の羌族の軍により包囲されてしまった。兵糧が欠乏してきたため、董卓は魚を捕るふりをしてひそかに川を堰き止めて水を貯めて、堰の下を通って敵の包囲から抜け出してから、堰を切ったため、川の水深が深くなったので、敵は追撃できなかった。
この戦いで6師団の後漢軍のうち、5師団は敗北したが、董卓の軍勢だけは大きな損害を受けず、扶風に駐屯した[4]。董卓は?郷侯となり、1000戸の領邑を受けた(『後漢書』「董卓伝」)。
中平5年(188年)、張温の帰還後も韓遂らに備えて扶風に駐屯する董卓は前将軍に任命された。ちょうど、漢陽郡の王国が挙兵し車騎将軍を自称し、韓遂や馬騰らと合流し強勢となった。董卓は左将軍の皇甫嵩と共に王国の討伐に出動した。董卓は兵法通りの作戦を立てて皇甫嵩に進言を行ったが、皇甫嵩は反乱軍に対し臨機応変に対処し、それは董卓の進言の逆を突くものであった。その作戦で反乱軍に大勝した結果として功績は皇甫嵩に帰し、董卓の作戦は的を射ていないと言われてしまう始末であった(『後漢書』「皇甫嵩伝」)。
その後、朝廷から少府に任命され、軍を皇甫嵩に引き渡して帰還を促す命令を受けるが、董卓は辺地の治安悪化を理由に拒否して駐屯を続けた(「霊帝紀」)。翌中平6年(189年)に并州牧[5] となる。なお、并州牧任官と同時に、軍を手放すよう2度目の命令を受けたが、董卓は軍隊を率いたままで并州に赴任することを望んで再び勅令を拒否した(「霊帝紀」)。
董卓は軍勢を率いたまま河東に駐屯し、時勢を伺っていたという(『後漢書』「董卓伝」)。 中平6年(189年)に霊帝が没すると、少帝弁(劉弁)の外戚である大将軍の何進は司隷校尉の袁紹らと謀議を重ね、十常侍ら宦官を一掃しようとしたが、妹の何太后らに反対されていた。そこで何進は董卓ら地方の軍事指揮官を召しだし何太后への圧力としようとした。董卓は何進の命令に応じて首都?陽(洛陽)に軍勢を進めた。 宦官の反撃に遭い何進が殺され、袁紹らが宮中に突入し宦官殺害を実行する中、宦官の一人中常侍の段珪が少帝弁とその弟の陳留王劉協を連れ去る事件が起きた。段珪らは小平津まで逃げていたが、軍勢を率いた董卓に追撃され自殺、董卓は徒歩でさまよっていた少帝と陳留王[6] を救出して洛陽に帰還した。 董卓は二人と会話をしながら帰路についたが、この時劉弁は満足な会話さえ十分にできなかったのに対して、陳留王は乱の経緯など一連の事情を滞りなく話して見せたことから、陳留王の方が賢いと思ったという(『献帝紀』)。 董卓が洛陽に入った時は3000ほどの兵力しかなかったので[7][8]、殺害された何進や何苗[9] の軍勢を吸収して軍事力で政権を手中におさめた。また、同じく何進に呼び寄せられた執金吾の丁原の軍士を取り込むべく、丁原の暗殺を企てた。丁原の部下には武勇の士として名高い呂布がおり、暗殺は失敗してしまうが、その呂布がまもなく董卓の誘いに乗り、丁原を殺害して董卓に帰順し、董卓は丁原の兵を吸収した[10]。 洛陽で軍事力を持つ唯一の存在となった董卓は兵力を背景に袁紹らを封じ込め、天候不順を理由に司空の劉弘 董卓は太尉・領前将軍事となり、節を与えられると共に斧と鉞と虎賁兵を与えられ、?侯に封じられた。 ついで相国[14] となり[15]、朝廷で靴を履いたまま昇殿し、さらにゆっくり歩くことと帯剣[16] を許された。さらに生母を池陽君にし家令・丞を設置することを許された。 位人臣を極めた董卓は暴虐の限りを尽くし、洛陽の富豪を襲って金品を奪ったり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、董卓の兵が毎夜のごとく女官を凌辱したり悪道非道を重ねた[17]。
政権掌握へ
専横を極める