董 元(とう げん、? - 271年)は、西晋の武将。益州建寧郡の人。 咸熙元年(264年)、呉の交趾太守・孫?の暴政により郡吏の呂興に殺害される事件が起こった。晋朝は呂興を太守に任じるが功曹に殺され、代わりに建寧郡の爨谷を太守として、牙門将の董元、毛Q、孟幹、孟通、爨熊(能)、李松、王素(業)ら部曲を付けて派遣した。彼らが265年に到着して郡内を慰撫するも、しばらくして爨谷は死去し、後任の馬融も死去すると、霍弋は次に?為郡の楊稷を太守に任じ、各牙門らは雑号将軍に昇進した[1]。 一方で、268年に呉から交州刺史・劉俊、大都督・脩則、顧容らの軍勢が派兵されたが、楊稷らは呉軍の三度の攻撃をすべて撃退し、鬱林、九真郡も帰順してきた。10月、楊稷は毛Qと董元を合浦郡に派遣すると、古城での戦闘で呉軍を大破して劉俊、脩則らを斬った。こうした功績から楊稷の上表で毛Qが鬱林太守、董元が九真太守に任じられた。 泰始七年(271年)春、呉は虞を監軍にして大都督・薛?と陶?を交州に派兵した。楊稷らは分水の戦いで呉軍を退けるも、董元は陶?の夜襲を受け宝物を奪われた。その後、陶?が不意を突いて海路から交趾城に襲来すると、董元の軍勢が防衛にあたった。董元は部隊を偽って後退させて垣根の内側の伏兵を繰り出したが、陶?に見破られており大敗した[2]。 陶?は以前、董元から奪った錦数千匹を使って扶厳夷の首領・梁奇から1万ほどの軍勢を借り受けた。また董元麾下の勇将・解系の弟・解象に誘いをかけると、陶?の?車(一頭立ての馬車)に乗せ、鼓吹隊などを付けて厚遇した。これを知った董元は「解象ですらこの有様なら、解系は必ず去るだろう」と解系を殺害した。こうした陶?の計略もあり、同年4月に虞に破れて董元は斬られた[3]。 董元の死後、九真郡は王素が代わりの太守となった。しかし、7月に交趾が陥落すると王素は(董元の牙門将)王承と共に故郷の南中に帰ろうとしたところを陶?配下の衛濮に捕縛された。その後は九真郡の功曹・李祚が吏民を率いて固く守ったが、最終的には陶?に陥落させられた[4]。
生涯
参考文献
『晋書』陶?伝
『華陽国志』南中志
脚注[脚注の使い方]^ 『華陽国志』南中志
^ 『晋書』陶?伝
^ 『晋書』では軍が敗れて死亡、『華陽国志』では病死。『資治通鑑』では陶?が殺害。
^ 『華陽国志』および『晋書』陶?伝