この項目では、勝川春章の門人で勝川春朗を称した浮世絵師について説明しています。
葛飾北斎の二代目については「葛飾北斎 (2代目)」をご覧ください。
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目に含まれる文字「葛」は、オペレーティングシステムやブラウザなどの環境により表示が異なります。
葛飾 北斎
自画像(天保10年(1839年)頃)
誕生日 (1760-10-31) 1760年10月31日
出生地 日本 武蔵国葛飾郡本所割下水
葛飾 北斎(かつしか ほくさい、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:葛飾󠄁 北齋、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)は、江戸時代後期の浮世絵師である[1]。19歳で勝川派の頭領勝川春章に師事し絵師としての活動を始めて以降、安永8年(1779年)から嘉永2年(1849年)までの70年間に渡って、人間のあらゆる仕草や、花魁・相撲取り・役者などを含む歴史上の人物、富士山・滝・橋などの風景、虫、鳥、草花、建物、仏教道具や妖怪・象・虎・龍などの架空生物、波・風・雨などの自然現象に至るまで森羅万象を描き、生涯に3万4千点を超える作品を発表した[2][3]。その画業分野も版画(摺物)のほか、肉筆浮世絵、黄表紙、読本、狂歌本、絵手本、春画など多岐に渡った(→代表的な作品)。
ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、西洋由来の絵画技術にも大いに興味を示し、銅版画やガラス絵、油絵などの描法を研究し試みた[1]。北斎の画業は欧州へと波及し、ジャポニスムと呼ばれるブームを巻き起こして19世紀後半のヨーロッパ美術に大きな影響を及ぼした[4]。化政文化を代表する画家として存命時より高い知名度を持っていたが、1998年にアメリカの雑誌『ライフ』が企画した「この1000年間で最も偉大な業績をあげた世界の100人」に日本人として唯一のランクインを果たしたことで、日本国外での評価の高さを知らしめるとともに、日本国内においても評価が再考されるようになった[5]。 北斎の出自を伝える確たる資料は見つかっておらず、自身が85歳の時に制作した肉筆画『大黒天図』の落款にある「宝暦十庚辰年九月甲子ノ出生」から、生年月日は宝暦10年9月23日(1760年10月31日)とされている[6]。家系については川村氏
生涯
幼年期
また、母親については小林平八郎を曾祖父に持つ家系だったという説がある[9]。出生地は式亭三馬が「本所の産」としていることから、武蔵国本所割下水の傍[注釈 3](現在の東京都墨田区)であるとする説が有力である[6]。幼名に関しても複数の通説があり、時太郎、時次郎、時二郎、鉄蔵などがある[6]。飯島虚心の『葛飾北斎伝』では、幼名を時太郎、その後に鉄蔵を名乗ったとしている[7][11]。
北斎は『富嶽百景』や『画本彩色通』の跋文で、6歳頃から好んで絵を描いていたと回顧しており、少年期は貸本屋の小僧として働いていたとされるが[12][7]、『葛飾北斎伝』を校注した鈴木重三は、貸本屋で働いていたという説について出所が不明であると補記している[11]。また、14、15歳から19歳ごろまでは木版画の版下彫りを生業としていたと、石塚豊芥子が収集した雲中舎山蝶の『楽女格子』(1775年刊行)の識語に記されている[12]。その後、安永7年(1778年)には勝川派の頭領である浮世絵師勝川春章に師事し、絵師として活動を始めた[13]。しかし、当時の勝川派は浮世絵界における一大勢力であり、一介の版下彫りであった北斎がどのように春章と知り合い、師事するに至ったのかについては明確になっていない[14]。処女作のひとつとされる春朗時代の錦絵『四代目岩井半四郎 かしく』(1779年) 北斎が画界に登場するのは、春章に師事した翌年の1779年からで、寛政6年(1794年)までのおよそ15年間を勝川派の絵師として活動した[3]。この間に家庭を持ち[注釈 4]、子を設けたとされ、後に浮世絵師となる娘のお栄(葛飾応為)もこの時期に誕生しているとする説もある[16][注釈 5]。従来の研究者の間では北斎の20歳から35歳までのこの期間は「春朗時代」と呼ばれ、春章の様式を踏襲する没個性的で地味な期間であったとみなされていた[3]。こうした傾向について永田は2017年に出版した自著において、「近年の研究によりこの年代の絵師としては多作かつ多彩な内容であったと評価が改められつつある」と指摘している[17]。
春朗時代