葛西
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この項目では、東京都の地名について説明しています。その他の用法については「葛西 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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出典検索?: "葛西" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年3月)

葛西(かさい)は、現在の東京都東部の地名である。広義にはかつての下総国葛飾郡の西半分(中世以前)、武蔵国葛飾郡江戸時代初期に発足)を指し、狭義には東京都江戸川区南部の地区である。本記事ではこの両者について記述する。
広義の葛西

平安時代(およそ西暦900年代)以前より呼ばれている広域地名国郡制で定めた下総国葛飾郡の西半分を葛西、東半分を葛東と呼んだ。江戸時代には武蔵国葛飾郡の域であり明治以降は東京府南葛飾郡となった域が概ね該当する[1][2]
地域

現在の行政区分では、東京都葛飾区江戸川区の全域と墨田区の一部(旧向島区のほぼ全域)、江東区の一部(旧城東区のほぼ全域)になる[3]

なお本所地区の牛島(向島、吾妻橋、東駒形ほか)、深川地区の永代島(永代、佐賀、福住)は中世までは武蔵国豊島郡に属したが、江戸時代初期の武蔵国葛飾郡発足の際に編入された[4]両国(江戸時代に作られた地名)もこれに含まれる。

中世においての中心地は葛飾区の青戸(青砥)付近であったと考えられ、中世の武将である葛西氏はこの付近に館(葛西城)を構えていたと見られる。
歴史

下総国武蔵国の国境はもともとは古い利根川の河道に一致し、現在の千住曙町以南の隅田川を流れ、東京湾への河口付近は横十間川を流れた。

最近になってこの地域の古代の戸籍帳(下総国葛飾郡大嶋郷戸籍)が発見された[5]

また平安時代には伊勢物語にこの地域の記述が見られる。東武伊勢崎線の業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)の由来はこの故事にちなむものとされている。

平安時代末期に至ると桓武平氏の内秩父氏の一派がこの地域に寄り、葛西氏を名乗った。葛西氏は源頼朝の蜂起に呼応してこれに合流し、現在の宮城県から岩手県にかけての地域の所領を手に入れる。後に葛西氏は東北地方の戦国大名となり、現在東北地方に多く見られる葛西姓の由来になっている。

中世を通じて葛西氏が、また葛西氏が東北へ本拠を移した後は千葉氏がこの地域を支配したが、千葉氏の勢力が衰退して後北条氏の勢力が大きくなると、千葉氏は後北条氏に服属してこの地域は実質後北条氏の武将が治める様になる。古河公方が分裂した際に後北条氏に擁立された古河公方足利義氏がこの地で元服している。

豊臣秀吉による関東征伐後は徳川家康の支配に置かれた。その後江戸時代に利根川の大規模な治水工事が行われ、利根川の水流の大部分を渡良瀬川と合して旧鬼怒川から銚子に、一部を太日川に流すようになった。これが現在の江戸川である。江戸川の誕生は葛飾地域の一体性を大きく分断した。

西側の葛西は江戸の近郊地域と化した。1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間1622年-1643年)には上流部とともに下総国から武蔵国へ移管され、武蔵国葛飾郡が発足した。葛西地域の西隣では、貯木場となる木場が置かれ、元禄年間には深川本所の江戸の市街地化が進んだ。

東側の葛西はまだまだ村が多かった。葛西にはかつての葛西氏の末裔である葛西権四郎がおり、家康の江戸入城以来、代々にわたって江戸城から出る上質な糞尿を汲み取って売買できる権利を幕府から許され、権四郎の家は大いに潤った。良い肥料を使っていることから葛西産の野菜は上物とされ葛西の村々は近郊農業で栄えた。

またこの頃になると、この地域を中川をおおよその境に東西に分けて「東葛西領」と「西葛西領」と呼ばれるようにもなった。東葛西領をさらに「上之割」・「下之割」に、西葛西領を「本田筋」と「新田筋」に分け、4地域に区分される場合もあった。

江戸後期の歌人・国学者の大橋方長による「武蔵演路」[6](安政9年(1780年))には武蔵国の様子が詳しく述べられており、そこには『葛飾郡ハ、本所・葛西・二郷半・幸手・杉戸・栗橋辺迄凡十一万石余の郡二して・・・』と述べられており、また『西葛西六十三ケ村、東葛西五十五ケ村』とある。その中で西葛西領の村は、『本所(南北)、中郷、柳嶋、亀戸、押上、猿江、大嶋、平方、永代島、小名木、海辺新田、八右衛門新田、平井新田、亀高、炮烙新田、萩新田、治兵衛新田、久左エ門新田、又兵エ新田、千田新田、砂村、砂村新田、永代新田、太良兵エ新田、中田新田、大塚新田、小梅、須崎、請池、寺嶋、小村井、隅田、隅田新田、木下川(上下)、大畑、若宮、葛西川、木ノ下、善エ門、淡須、川端、原、渋江、立石、梅田、中原、堀切、小菅、篠原、世継、宝来嶋、青戸(東西)、千葉(上下)、亀有、砂原、小谷野』で東葛西領の村は『平井(上中下)、逆井、小松川、船堀、宇喜田(東西)、長島、桑川、一ノ江(東西)、一ノ江新田、二ノ江、本一色、本奥戸、本奥戸新田、今井(上下)、当代嶋、鎌田(上下)、新宿、谷河内、新堀、松本、前野、伊世谷、篠崎(上下)、鹿骨、今井、笹々崎、奥ノ宮、上一色、小松(内下)、伊与田、小岩(上中下)、小岩田、細田、鎌倉新田、曲金、諏方野、柴又、金町、金町新田、飯塚、猿ケ又、猿新田、中新田、新新田、小合(上下)、小合新田』であると記されている。[7]

明治時代になるとこの地域は東京府下に置かれ、1889年、大半は行政区分上、南葛飾郡になった。昭和に入り1932年には南葛飾郡が東京市に編入(向島区、城東区、葛飾区、江戸川区)され、1943年の東京市廃止・都制施行を経て、1947年に本所区、深川区とあわせ、現在の墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区の4つの特別区にまとめられた。

大正時代までは本所、深川以東は市街地化が進んでおらず、水田や畑の多い、のどかな田園風景が広がっており、小松菜(古くは葛西菜とも呼ばれた)に代表される大都市近郊農業が営まれていた。しかし、隅田川がたびたび氾濫し、この地域のみならず高度化しはじめた都心の被害も甚大になり始めたため、対策として昭和5年に荒川放水路が完成してからは、宅地化や工場移転により人口流入が急速に進み市街化した。以降は、この荒川放水路以東が葛西と認識されるようになる。

昭和末期まで残っていた都県境付近の農地も、バブル期にその多くが宅地化された。


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