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葛山氏
本姓称・藤原北家伊周流駿河大森庶流? → 清和源氏義光流武田支流[1]
家祖葛山惟兼
葛山氏(かつらやまし)は、駿河国駿東郡葛山(現在の静岡県裾野市)を本拠とした武士である。桂山とも表記されることがある[1]。
鎌倉幕府滅亡時に駿河葛山氏の中に北条氏得宗家と運命を共にせず、足利氏に帰参した者も存在していた。『太平記』(巻37)には畠山国清の反乱鎮圧の際に行われた伊豆国での兵粮米徴収を巡って葛山備中守と平一揆がトラブルを起こす場面が描かれている。この備中守は伊豆に近い駿河葛山氏の一員とみられている。室町時代中期に入ると、駿河葛山氏の支配地域が鎌倉府の支配地域のすぐ外側に位置することから、室町幕府と鎌倉府の対立が深刻化すると注目されることになる。すなわち、正長元年(1428年)、幕府が鎌倉府を恐れて京都に亡命していた甲斐守護武田信重に甲斐と隣接する駿東郡佐野郷・沢田郷を与えようとして辞退された際に、葛山氏が両郷は元々自領であったと主張したため、将軍足利義教の判断で次善の策として両郷を葛山氏に与えることが決定されたのである[2]。これは、室町幕府と鎌倉府の対立の中で鎌倉府の領域の外側に親幕府勢力の形成を急いでいた幕府が混乱状態にあった武田氏や今川氏に代わって葛山氏の存在に注目したと考えられている。これによって葛山氏は室町幕府の奉公衆(文安期の番帳には在国衆・四番と記載されている)に加えられて、北関東における京都扶持衆と同様の役目が期待されたと考えられている。一方で、駿河国の守護である今川氏の従属下にも入っており、親幕府派と反対派の内紛が続く今川家中で親幕府派として行動している。それは永享の乱において室町幕府から制度上は奉公衆として今川氏から自立している筈の葛山氏が富士氏・狩野氏・興津氏・庵原氏ら今川氏傘下の駿東地域の諸領主とともに今川氏の指揮に従うように命じた足利義教の御内書[3]からも窺える。
出自の子・葛山惟兼を祖としている。ただ、惟兼以降の系譜の異同が激しく、不明な部分も多い。また、御宿氏を葛山氏の庶流とする説もある。
動向
鎌倉時代は3代将軍源実朝に近侍し、渡宋の命を受ける。しかし、渡宋目前になって実朝が暗殺され、悲嘆にくれた景倫は主君の菩提を弔う為に出家して「願性」と名乗って高野山へ上がった。その時、金剛三昧院で心地覚心(法灯円明国師)と出会う。亡き主君の生母である北条政子から、紀伊国の由良荘の地頭職与えられ、その地に西方寺を建立。宋より帰着した心地覚心に西方寺を任せ、興国寺と改めた。この興国寺に心地覚心が弟子を伴い、その弟子(虚竹禅師・寄竹)が尺八を良く吹いたことから、これにより尺八の伝来の地として全国に広まったとされる。また、葛山小次郎(系譜上では「広重」)という人物が実朝暗殺の後に発生した承久の乱で幕府軍の一員として北条泰時に従って従軍したことが『吾妻鏡』承久3年5月22日条に見える。葛山広重は系譜上の駿河葛山氏の祖であり、景倫(願性)は傍流とされているが、傍流の存在は駿河以外の国々にも葛山氏が展開していったことを示している。鎌倉時代後期に入ると、葛山氏は北条氏得宗家との関係をより強めて御内人に近い存在となっていった。鎌倉時代末期に長崎円喜の邸宅で行われたとされる『鎌倉殿中問答記録』は今日では創作とみられているものの、この中で葛山氏(葛山六郎左衛門尉)が北条氏一門・内管領長崎氏に次ぐ地位の人物として登場するのは、当時の同氏が北条氏得宗家の家臣として相当の地位にあると認識されていたことを推測させる。
室町時代