この項目では、大阪府藤井寺市に存在する「葛井寺」(読み:ふじいでら)について説明しています。徳島県吉野川市に存在する同音異字の「藤井寺」については「藤井寺 (吉野川市)」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目に含まれる文字「葛」は、オペレーティングシステムやブラウザなどの環境により表示が異なります。「葛」の文字は公式の表記「」と異なる可能性があります。
葛井寺
本堂
所在地大阪府藤井寺市藤井寺1丁目16-21
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度34分12.67秒 東経135度35分47.60秒 / 北緯34.5701861度 東経135.5965556度 / 34.5701861; 135.5965556
葛井寺(ふじいでら)は、大阪府藤井寺市藤井寺にある真言宗御室派の寺院。山号は紫雲山で、本尊は日本最古の十一面千手観世音菩薩(千手観音)。聖武天皇の勅願寺で神亀2年(725年)に創建され、開山は行基と伝えられる。西国三十三所第五番札所。
本尊真言:おん ばざら だらま きりく そわか
ご詠歌:参るより頼みをかくる葛井寺 花のうてなに紫の雲 寺伝によると聖武天皇より古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされている。近世の地誌類や再興勧進帳でも以上の寺伝を踏襲しているが、別説では元々は葛井連の氏寺であったとされている。 葛井連の前身である白猪氏は百済辰孫王の後裔である王辰爾の甥である胆津を祖としており、『日本書紀』によれば、吉備国の白猪屯倉の田部の丁を定めた功績により白猪氏の姓を賜ったとされている[1]。奈良時代の養老4年(720年)に白猪氏は葛井連(藤井連
歴史
大同元年(807年)にの葛井氏の出身である藤子(葛井連道依娘)と平城天皇の間に生まれた皇子である阿保親王によって再建された。また阿保親王の皇子である在原業平が奥の院を造営した[2]。中世以前の沿革については史料が乏しく、必ずしも明確でないが、本尊千手観音坐像は奈良時代の作品であり、境内から奈良時代の古瓦が出土することなどから、創建が奈良時代・8世紀頃にさかのぼることは間違いない。
発掘調査によって7世紀中葉の西琳寺式軒丸瓦や7世紀後半の善正寺[要曖昧さ回避]式軒丸瓦が出土しており、7世紀後半には建立されたことが判明している。なお、8世紀前半の大安寺式軒瓦や難波宮式軒瓦(重圏紋軒丸瓦・重郭紋軒平瓦)が多数出土しており、この頃伽藍の整備がなされたと考えられる。
永長元年(1096年)には、大和国賀留の里の住人・藤井安基が、荒廃した伽藍を修理したと伝える。境内出土の瓦の1つに久安3年(1147年)の銘があり、その頃に造営事業が行われたことが推定される。平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、西国三十三所観音霊場が成立すると、その一つに数えられるようになった。南北朝時代には楠木正成が陣をしいたことがあるなど、たびたび兵火にさらされた。