凡例葉室 光俊
時代鎌倉時代中期
生誕承元3年(1209年)
死没建治2年6月9日(1276年7月21日)
改名光俊→真観(法名)
別名右大弁入道
官位正四位下・右大弁
主君順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇
氏族葉室家
父母父:葉室光親、母:吉田定経娘・経子
葉室 光俊(はむろ みつとし)は、鎌倉時代中期の公家・歌人。権中納言・葉室光親の子。官位は正四位下・右大弁。新三十六歌仙の一人。子に大僧都・定円、尚侍家中納言(藤原親子)、鷹司院帥がおり共に勅撰歌人である。出家して真観と称した。右大弁入道等とも呼ばれる。 葉室光親の子として誕生。母は順徳天皇の乳母としても知られる藤原経子
経歴
承久2年(1220年)、右少弁蔵人に任じられる。翌承久3年(1221年)、承久の乱敗北により、父光親は死罪、光俊も連座して筑紫国に配流されたが、嘉禄2年(1226年)以降は中央に返り咲き、後堀河院院司別当に至る。正四位下、右衛門権佐、右大弁。嘉禄2年(1236年)出家、法号真観[* 1]。
歌人としては、始め藤原定家に師事し、『新勅撰和歌集』で勅撰集入集を果たすが、やがて正三位知家(藤原知家)らと共に、御子左派への対抗勢力を形成。『現存和歌六帖』『秋風和歌集』等の編纂、『難続後撰』等の著述によってその立場を主張した。文応元年(1260年)以降、6代将軍・宗尊親王の歌の師として、鎌倉歌壇にも重きをなす。歌枕の研究に『風土記』を活用したことでも知られる[2]。また、宗尊親王の後援を背景として、後嵯峨院の命により『続古今和歌集』撰者に加えられる[3]等、中央歌壇にも影響力を持ったが、親王の失脚に伴い、勢いを失った。 勅撰集歌集名作者名表記歌数歌集名作者名表記歌数歌集名作者名表記歌数 百首歌・歌合名称時期作者名表記備考
系譜
父:葉室光親(1176-1221)
母:吉田経子 - 吉田定経の娘
妻:不詳
男子:定円
女子:尚侍家中納言 - 親子
女子:鷹司院帥
作品
千載和歌集新古今和歌集新勅撰和歌集藤原光俊朝臣 4
続後撰和歌集藤原光俊朝臣10続古今和歌集
(撰者5名に入る)藤原光俊朝臣
光俊朝臣
(一本藤原光俊)25
5
1続拾遺和歌集藤原光俊朝臣
光俊朝臣 1
15
新後撰和歌集藤原光俊朝臣
光俊朝臣 2
8玉葉和歌集藤原光俊朝臣
光俊朝臣 1
4続千載和歌集藤原光俊朝臣
光俊朝臣 1
4
続後拾遺和歌集光俊朝臣 3風雅和歌集藤原光俊朝臣 2新千載和歌集光俊朝臣 3
新拾遺和歌集藤原光俊朝臣
光俊朝臣 1
1新後拾遺和歌集藤原光俊朝臣
光俊朝臣 3
3新続古今和歌集藤原光俊朝臣 4
日吉社撰歌合1232年(寛喜4年)3月14日奉納
石清水若宮歌合1232年(寛喜4年)3月25日
洞院摂政家百首1232年(貞永元年)
新撰六帖題和歌1244年(寛元2年)家良・為家・知家・信実・光俊による題詠と相互加点
春日若宮社歌合1246年(寛元4年)12月
宝治百首1248年(宝治2年)
九月十三夜百首歌合1256年(建長8年)
宗尊親王家百五十番歌合1261年(弘長元年)7月7日
和歌御会1270年(文永7年)題者
摂政家月十首歌合1275年(建治元年)判者