落馬
[Wikipedia|▼Menu]

この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2012年1月)

落馬(らくば)は、から騎乗者が落下することである。

一般的に騎乗者の足は(あぶみ)に架かっているため、落馬が発生すると上半身(特に頭)から落下することがよくあり、大きな怪我を負ったり、場合によっては死に至ることも少なからずある。
歴史における落馬

歴史上の人物には、落馬による怪我が致命傷となった人物がいる。
源頼朝
吾妻鏡』によれば、源頼朝は1199年に落馬の影響で死亡したとする。ただし、異説もある。
チンギス・カン
チンギス・カンは1225年の西夏への遠征の際に行った狩猟中の落馬がもとで亡くなったとする説がある[1]。ただし、敵から受けた矢傷が死因であるとする説や雷に撃たれたことが死因となったとする説など異説が多くある[1]

落馬事故で死亡した歴史上の人物に関してはCategory:落馬事故死した人物を参照。詳細は当該人物の項目を参照。
競馬における落馬 障害競走における落馬と再騎乗を試みる様子

競馬において、競走中に落馬した場合には、落馬した地点で再騎乗するか、騎乗後に落馬した地点まで引き返さなければならず、これに違反すると失格となる(日本中央競馬会競馬施行規程114条第2項及び123条)。この場合、当該馬が関わる馬券の購入金額の返還もされない。再騎乗は障害競走では見られることがある。これは、障害競走における落馬は馬に故障がないことがあり、また完走すれば他馬の落馬等で賞金が得られる順位まで繰り上がる可能性も平地競走より高いためである。

また、他馬の進路を妨害して落馬せしめた場合、妨害した馬は失格となる。加害馬に騎乗していた騎手騎乗停止などの制裁が課される。

一方で、競走開始前に騎手が落馬した場合は失格とはならず、騎手が再騎乗し競走能力が十分あると判断された場合はそのまま競走が行われる。但し落馬の際に騎手もしくは競走馬が競技続行が難しいほどの深手を負った場合や、競走馬が落馬後に逸走し著しい疲労状態となった場合は、そのまま競走除外となる場合がある。この場合は失格ではないため、レース後にその馬が関わる馬券の購入金額の返還が行われる。なお騎手が落馬したまま走っている馬は空馬と呼ばれる。

中央競馬では2017年よりルールの国際調和及び騎手と馬の保護の観点から、競走において騎手が落馬した場合に、再騎乗して競走を継続することが禁止されることになった[2]

なお、ばんえい競馬では騎手がそりに乗っているため、落馬ではなく落橇(らくそり)と呼ばれる[3]
落馬の発生要因

落馬によって数度重傷を負った経験を持つ田原成貴は、落馬が発生する要因として以下の6点を挙げ、これらが複雑に絡み合い危険な事故につながると述べている[4]
騎乗馬の躓きや故障

騎乗馬の気性(馬が進行方向を突然変えるなど)

騎乗馬が前の馬に乗りかかる(脚をさらわれるなど)

他馬による進路妨害(3につながる)

他馬の落馬に巻き込まれる

ずれ、が割れるなど馬具の異常

また田原は、落馬事故が発生した場合、馬ごと転倒する、自分だけ投げ出される、騎乗馬のほぼ真下に落ちるといった落ち方の違いによっても、怪我の度合いや落ちた後に取るべき対応が異なるが、多くの場合は心の準備がないまま発生する一瞬の出来事であるため、落ちた後にどのような結果となるかは結局のところ運任せであると述べている[5]。一方で、自馬の突発的な故障やもらい事故など不可抗力によるもの以外は、競走中の各馬の状態や流れを見極めるといった騎手の判断によって事故を確実に減らすことはできるとしている[5]
競走中の落馬によって命を落としたり、騎手生命を絶たれた日本の騎手 レース中に落馬し、救急車に搬送される騎手
本項では落馬により死亡、騎手生命を絶たれた人物について抜粋記述する。


加藤義雄(日本レース・倶楽部1933年落馬、死亡)5月13日の横浜競馬場第2競走(抽籤新馬)で、9頭中5頭が落馬した事故で殉職。加藤は本競走がこの年最初の騎乗で、単勝1番人気馬に騎乗しての悲劇であった。

茂木勢一(日本競馬会1938年落馬、死亡)4月3日の中山競馬場第7競走(抽籤馬障害特ハン)で落馬。

吉田弘(日本競馬会・1940年落馬、死亡)3月29日の小倉競馬場第5競走(古呼障害)で落馬、後続馬に蹴られて即死した。

村口繁一(日本競馬会・1942年落馬、死亡)10月4日の阪神競馬場第8競走(呼馬障害)で落馬し、14日死去。

武富三(日本競馬会・1944年落馬、死亡)5月7日の東京競馬場での春季能力検定競走(第7競走・呼馬障害)でイソノマツに騎乗して落馬。この日既に1勝2着1回を挙げ、開催期間中6勝を記録していた中での事故であった。

岩瀬三郎(日本競馬会・1948年落馬、死亡)5月15日の東京競馬場第4競走(アラブ系障害)で落馬。

吉田昌祐(国営競馬・1949年落馬、死亡)3月13日の東京競馬場第4競走(アラブ系障害特ハン)で落馬。

横山靖(国営競馬・1953年落馬、死亡)2月18日の小倉競馬第6競走(サラ系4歳)で落馬し、夜に死去。武田文吾は義兄。

田畑志郎(国営競馬・1953年落馬、死亡)5月10日の東京競馬場第4競走(サラ系障害)で落馬し、11日死去。

谷岡敏行(国営競馬・1953年落馬、死亡)朝日杯3歳ステークスでの事故であった

西橋康郎(中央競馬1955年落馬、死亡)1月9日の京都競馬場第4競走(サラ系障害)で落馬し、11日死去。西橋は1936年生まれで、1954年3月にデビュー。わずか19歳2ヶ月での悲劇であった。

若松幸治(中央競馬・1955年落馬、死亡)8月4日の小倉競馬場での調教中に、腹帯が切れて騎座変により落馬し即死した。

大柳英雄(中央競馬・1955年落馬、死亡)死亡年度の全国リーディング7位。2年目での悲劇。

鳥谷部実(中央競馬・1955年落馬、死亡)11月17日の中山競馬第4競走(サラ系障害)で、1コーナーで転倒した馬に巻き込まれて落馬し、21日に死去。

阿部正太郎(中央競馬・1956年落馬、引退)のち調教師として厩舎を開き、加賀武見を見出す。

矢倉義勇(中央競馬・1959年落馬、一時回復するも1962年死亡)

柴田富夫(中央競馬・1960年落馬、死亡)3月3日の東京競馬場での障害試験中の落馬により殉職。この事故を契機に、調教中でも救急車が馬場内に待機する様になった。

茂木光男(中央競馬・1960年落馬、死亡)

目時重男(中央競馬・1960年落馬、1961年死亡)

近藤武夫(中央競馬・1960年落馬、1961年死亡)

菅村恭一(中央競馬・1961年落馬、死亡)12月9日の阪神競馬第8競走で、4コーナー通過後に落馬転倒し、21日に頭部外傷による尿毒症を併発して死去。

志村功(中央競馬・1964年落馬、死亡)8月15日の中京競馬第3競走(速歩)で、発走直後に馬に蹴られた後に落馬し、頭部陥没骨折により即死。

小泉明東(中央競馬・1969年落馬、死亡)東京競馬場での調教試験中に落馬、殉職した。

小野定夫(中央競馬・1969年落馬、死亡)

石井正善(中央競馬・1969年落馬、死亡)『馬事公苑花の15期生』。

丸目敏栄(中央競馬・1971年落馬、引退)引退後は調教師として競馬界に復帰したが、1980年8月4日に急死した。

秋元松雄(中央競馬・1976年落馬、1977年死亡)1976年の中京競馬で落馬し、翌1977年1月28日に死去。

佐藤政男(中央競馬・1977年落馬、死亡)『馬事公苑花の15期生』。4月24日の東京競馬で、騎乗馬の手綱が切れ、その後騎座変によって落馬した際に頭を蹴られ、翌25日に死去。

坂本恒三(中央競馬・1977年落馬、死亡)9月3日の函館競馬最終競走で、1コーナー通過時に馬が故障して落馬。脳挫傷により7日に死去。

角田次男(船橋・1977年落馬、引退)落馬事故の際に騎乗していたサギヌマグツドリーは、この年の関東オークス優勝馬。

松若勲(中央競馬・1977年落馬、死亡)京都競馬の平地競走で落馬(7頭が落馬)。中央競馬の1レース落馬頭数ワースト2位タイである。

町屋幸二(中央競馬・1978年落馬、死亡)8月12日の新潟競馬第1競走(アラ系3歳未勝利)で、3コーナーで落馬。病院に運ばれたが、肋骨骨折による内臓損傷により死去。

福永洋一(中央競馬・1979年落馬、引退)『馬事公苑花の15期生』。毎日杯で落馬。

坂本敏美名古屋1985年落馬、引退)後の東海地区のエース・安藤勝己が敵わなかった天才として知られる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:41 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef