落語立川流
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"丸に左三蓋松"は、立川流の定紋である

落語立川流(らくご たてかわりゅう)は、東京における落語家の団体の1つである。七代目立川談志[注釈 1]とその一門により創設された。



特徴

団体創設の経緯から、落語のいわゆる定席
[注釈 2]へ出演できない。立川流が定席に出た例外として、末廣亭2006年4月中席の立川藤志楼(高田文夫落語芸術協会の顔付けに加わる)、国立演芸場2006年6月上席の立川談笑落語協会の顔付けに加わる)のみであったが、2017年8月に立川談之助が浅草の落語芸術協会の定席に出演したのを皮切りに、立川流所属の落語家が同協会の定席に客演する機会が多くなっている[注釈 3]
そのため、立川流としては永谷商事所有の「お江戸上野広小路亭」や「お江戸日本橋亭」での興行[注釈 4]や同場で開催される落語芸術協会、円楽一門会など他流との混合寄席、また浅草東洋館で行われるボーイズ・バラエティー協会東京演芸協会の興行(日替わりで1名程度)などに出演するほか、不定期にホールや市民会館などで独演会や一門会を開催している。「余一会」(寄席で各月31日に行われる特別興行)は立川流からも参加する場合がある。なお、談志の没後は、新宿末廣亭では二度にわたり立川流一門会が開かれている。

創設者である談志を頂点とする家元制の組織体系を採っていた。プロ落語家志願者を育てるための従来の師弟関係(Aコース)のほかに、一般人もお金を払うだけで弟子になれる制度があったが(Cコース)、Cコースは落語家にはなれなかった。談志の死去に伴い家元制度は廃止となった[1]

直弟子なら家元へ、孫弟子ならその師匠への上納金制度があったが、これも家元制度と共に廃止された。

談志の一門のみによって構成されるので、実質的に談志一門として認識される。例外はあるものの、ほぼ全員が立川の亭号を名乗る(例外として現役では十代目土橋亭里う馬、亭号剥奪期間中のらく兵、過去の在籍者では四代目桂文字助二代目快楽亭ブラック朝寝坊のらくなどのケースがある)。

江戸落語四流派の中では演芸番組『笑点』のレギュラー出演者[注釈 5]が2024年3月まではなかった[注釈 6]が、2024年4月より『笑点』「若手大喜利」出身者の立川晴の輔が初めてレギュラー出演者となった[2]

Aコースは落語家のみで構成され、色物は存在しない(例外あり)。立川流が主催する興行では外部から色物芸人も呼ばれることはある。

他の落語家団体に存在している専属の出囃子担当者(三味線奏者)がいない。必要な場合は他団体や外部の演奏者に委嘱する形となる。

発足から2019年現在に至るまで、法人組織化されていない。

2019年現在、東京・大阪の落語家の他団体に存在している二世落語家(親・子続けて落語家)が存在しない。

女性の入門者も数名在籍しており、2023年5月5日に立川こはる改メ立川小春志が、立川流として初の女性落語家の真打となった。

談志の生前から、原則毎年正月(談志の誕生日にあたる1月2日)には一門が集まり、新年会を行う。一門の落語家は紋付袴を着て根津神社に参詣した後、上野東天紅に集まって新年会を開催する。会の最後は談志が好きな歌「ふるさとのはなしをしよう(歌:北原謙二)」「浅草の唄(歌:関敬六、詞:サトウハチロー、曲:万城目正)」を歌いながら会場をぐるぐる回る[3][4]

沿革
誕生以前の前史「落語協会分裂騒動」も参照

落語協会分裂騒動は、落語立川流の誕生とは直接に関係しないが、間接的に大きな関わりのある重要なエピソードである。

1978年5月9日落語協会に分裂騒動が勃発した。前会長の六代目三遊亭圓生(当時:最高顧問)の副産物とも言える大量に存置されていた二つ目の真打への昇進を巡り、大量真打昇進で滞貨一掃を図った協会会長五代目柳家小さんと、安易な昇進に反対する圓生最高顧問が対立。圓生は落語協会からの離脱を決意し、圓生の弟子である五代目三遊亭圓楽に加え、三代目古今亭志ん朝、立川談志ら一部の幹部が圓生に同調し落語協会離脱の動きを見せた。5月24日に設立が公表された新団体「落語三遊協会」に、圓生一門と志ん朝のほか、七代目橘家圓蔵、圓蔵の弟子の五代目月の家圓鏡(後の八代目橘家圓蔵)らが参加を表明した。談志は最も強力な賛同者と目されていたものの、公式発表直前に突如として協会残留の意向を示し、この新団体に参加することはなかった。

翌25日、江戸落語の定席である上野鈴本演芸場新宿末廣亭浅草演芸ホール池袋演芸場の各寄席の席亭会議で、落語三遊協会に寄席への出演を認めないことを決めた。当初、落語協会所属の落語家の半数が三遊協会に移籍すると見られており、鈴本演芸場の席亭は三遊協会に好意的な立場であったが、実際に移籍を決めた人数は予想されたものよりも少なく、新宿末廣亭の席亭である北村銀太郎の「一見良さそうな顔ぶれだが一握りの売れっ子と無名の若手しかおらず、層が薄い。売れっ子がテレビ出演や地方興行の仕事で寄席を休んだ場合に適当な代演がおらず、これでは毎日(通常は10日間)の公演をまわしていけない」という意見が決定打となった。この決定により、三遊協会からはさらに脱退者が相次ぎ、5月31日に北村の仲介で圓蔵、圓鏡、志ん朝らは協会に復帰し、翌6月1日に正式に落語協会を脱退して落語三遊協会を結成したのは圓生の一門のみであり、しかも圓生の直弟子[注釈 7]からも脱落者を出す有様であった。

1979年9月3日、三遊協会の主軸であった圓生が急死した。これにより落語三遊協会は自然消滅し、分裂騒動は圓生側の全面的敗北に終わった。三遊協会所属の落語家は総領弟子の圓楽一門を除き、いずれも落語協会に復帰した。圓楽一門は新たに「大日本落語すみれ会」を結成。その後何度か改称の後、1990年に「円楽一門会」に改称して現在に至っている。

落語協会ではこの騒動後、真打昇進に関して師匠推薦に代わり「真打昇進試験」制度を導入することとなったが、後述するように合否の運用基準が不明瞭なこともあり、談志の批判、落語協会離脱につながることとなった。

この騒動は圓楽と談志が黒幕になり、圓生を唆して仕掛けたという説が存在している。目的は彼らのライバルであり、当時は将来の落語協会会長と目されていた志ん朝の香盤を落とすことであったとされている[注釈 8]。しかし、最終的に協会に戻った志ん朝は、表向きは「会長小さんの温情」という形[注釈 9]で香盤が下がらなかった。
誕生

1983年の落語協会真打昇進試験では、林家源平柳家小里ん林家種平、林家上蔵 (現:三代目桂藤兵衛)、蝶花楼花蝶(七代目蝶花楼馬楽・故人)、林家正雀古今亭八朝林家らぶ平 (現・らぶ平(フリー))、立川談四楼、立川小談志(四代目喜久亭寿楽・故人)の10名が受験した。当時理事であった談志が不在中、談志の弟子2人(談四楼と小談志)が不合格となる一方、初代林家三平の弟子で、力量が明らかに劣ると思われた源平が合格した(他の合格者は小里ん、花蝶、正雀)。談志はこの試験の結果と考査基準に異を唱え、大半の弟子と共に脱会、立川流落語会を創設した。談志は家元制度を確立し、初代家元となる。
結果

前述の通り、圓生一門の落語協会離脱の際に東京の寄席の席亭は番組編成上、落語協会・落語芸術協会所属者以外の出演は困難であるとした。立川流に関しても同様のスタンスであり、そのため立川流は一門として寄席に出演する意志は当初から持たず、代わりにホールでの落語会を中心に活動している。「日本すみずみ出前寄席」という企画では99,800円で真打1人、二つ目2人、前座1人の計4人を全国各地に派遣した。
家元談志の死去

2011年11月21日の談志の死去に伴い、2012年1月に一門で話し合いが持たれ、その結果家元制度を廃止したうえで、総領弟子の土橋亭里う馬が新代表となり再スタートした。
出演場所

前述の通り、落語立川流は東京の定席寄席(浅草演芸ホール・鈴本演芸場・新宿末廣亭・池袋演芸場)で定席興行を打つことができない。代わって永谷商事が所有するホールなどでの活動が中心となっていたが、2024年より永谷商事の寄席への出演機会が大幅に削減されることとなった。また、同じ経緯で都内の定席に出演できない五代目円楽一門会の「両国寄席」(毎月お江戸両国亭で行われる定席興行)への賛助出演(ぜん馬、志遊のみ出演)や、2017年11月以降、不定期に主に新宿末廣亭や池袋演芸場の落語芸術協会定席興行への客演(1名交互出演の形で顔付けられる)を含めた他流への出演、浅草東洋館で行われる東京演芸協会およびボーイズ・バラエティー協会の定席興行にも1?2名程度出演する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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