「落語芸術協会」とは異なります。
一般社団法人落語協会
落語協会本部
団体種類一般社団法人
設立1977年12月15日
所在地東京都台東区上野一丁目9番5号[1][注釈 1]
法人番号5010505000051
所管:文化庁文化部芸術文化課、
加入団体:日本芸能実演家団体協議会 (芸団協) 正会員
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一般社団法人落語協会(いっぱんしゃだんほうじん らくごきょうかい)は、東京の落語家・講談師などが組織する一般社団法人。2014年6月から四代目柳亭市馬が会長を務める[1]。日本芸能実演家団体協議会(芸団協)演芸部門 正会員[3]。 ⇒社会教育団体振興協議会 加盟団体。
興行
奇数月上席(かみせき)1日?10日 - 鈴本演芸場 浅草演芸ホール ※初席、ゴールデンウィーク
奇数月中席(なかせき)11日?20日 - 上野 新宿末廣亭 池袋演芸場 ※二の席
奇数月下席(しもせき)21日?30日 - 上野 浅草 池袋
偶数月上席(かみせき)1日?10日 - 上野 新宿 池袋
偶数月中席(なかせき)11日?20日 - 上野 浅草 ※お盆興行
偶数月下席(しもせき)21日?30日 - 上野 新宿 池袋
他に、上席・中席には国立演芸場の定席がある。正月初席は浅草東洋館でも興行を打つ。このため、一枚のチケットで観客は浅草演芸ホール・東洋館両方に入場できる。浅草でのお盆興行では大喜利として「住吉踊り」が協会所属の落語家によって催される[注釈 2]。上野の初席は特別興行(3部制)で、お盆興行は特別興行となる。池袋の毎月下席は通常の定席興行でなく、日替わり特別企画(「落語協会特選会」)として行われる。このほか、落語協会の2階を利用して、毎週土・日曜に二部制で「黒門亭」と称する定席興行を開催している(2023年現在、各回定員は30名。木戸銭は各回1000円)。同協会所属の芸人(回により色物も出演あり)が各回4人程度出演する。
沿革
1923年9月1日 - 関東大震災で東京が壊滅。旧来の「会社」と対立する諸派(睦会ら)の体制では立ち行かなくなる。
1923年10月 -「会社」も諸派も解散し、東京落語界が大同団結し、全員が合同して落語協会を設立する(設立に奔走した5代目柳亭左楽が会長となる)
1924年5月 - 協会分裂。会長の五代目を含む多くが脱退し「睦会」を再興。
1927年 - 協会分裂。人気の頂点にあった初代柳家三語楼が一門ごと退会し、全く同名の落語協会を設立した。
以後、旧来の落語協会を「東京落語協会」と、三語楼一門の協会を「三語楼協会」と俗称するようになる。
1930年 - 三語楼協会崩壊。初代三語楼は単独で東京落語協会に復帰(1932年に再度脱退)。
1940年5月3日 - 日本芸能文化連盟が結成、その構成団体として講談落語協会が結成される。結社としての落語協会は活動を停止し、全員が講談落語協会落語部第一班に加盟。
1945年 - 終戦後に講談落語協会が解散し、落語協会が事実上復活。
1946年10月 - 「落語協会」として新たに発足。
1963年 - 副会長の役職が新設される。
1977年12月15日 - 旧法のもとで法人格を取得。社団法人落語協会となる。
1978年 - いわゆる落語協会分裂騒動により、六代目三遊亭圓生一門の多数が退会し、「落語三遊協会」を設立。
1980年2月 - 前年9月の六代目圓生の死去により事実上解散した落語三遊協会の大半が落語協会へ復帰(五代目三遊亭圓楽一門を除く)。
1980年11月 - 第1回真打昇進試験(正式名称は「真打審査会」)を実施。対象20名のうち16名が受験、11名が合格[4]。
1981年5月 - 第2回真打昇進試験を実施。7名が受験、5名が合格(追試あり)。
1982年5月 - 真打昇進試験を改定、昇進と寄席の披露興行を切り離した。
1982年12月 -第1回真打昇進"認定"試験を実施。10名が受験、全員合格。
1983年5月 - 第2回真打昇進認定試験実施。受験者10名、合格者6人。
1983年6月 - 立川談志一門が退会し、11月に落語立川流を設立。
1983年10月 - 第3回真打昇進認定試験実施。6名が受験、合格者なし。翌年春の真打昇進認定試験の実施は見送られた。
1984年12月 - 桂文朝、桂文生、桂南喬らが落語芸術協会から移籍。
1985年10月 - 落語立川流から立川談生が移籍、鈴々舎馬桜となる。
1986年10月 - 第4回真打昇進認定試験を実施、4名が合格。
1987年5月 - 第5回真打昇進認定試験を実施、5名受験、2名合格。