落合英二
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この項目では、元プロ野球選手について説明しています。薬学者については「落合英二 (薬学者)」をご覧ください。

落合 英二中日ドラゴンズ 二軍投手兼育成コーチ #77
(2022年11月6日、Agreスタジアム北谷にて)
基本情報
国籍 日本
出身地栃木県下都賀郡石橋町(現:下野市
生年月日 (1969-07-25) 1969年7月25日(54歳)
身長
体重178 cm
87 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1991年 ドラフト1位
初出場1993年7月28日
最終出場2006年8月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


作新学院高等部

日本大学

中日ドラゴンズ (1992 - 2006)

コーチ歴


サムスン・ライオンズ (2010 - 2012)

千葉ロッテマリーンズ (2015 - 2017)

サムスン・ライオンズ (2018 - 2021)

中日ドラゴンズ (2022 - )

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

落合 英二(おちあい えいじ、1969年7月25日 - )は、栃木県下都賀郡石橋町(現:下野市)出身の元プロ野球選手投手)、コーチ

中日ドラゴンズの中継ぎとして活躍した右腕投手。2022年から中日ドラゴンズのコーチを務める。2017年のみ登録名は「英二」。
経歴
プロ入り前

作新学院高等部ではエースとして活躍。1986年秋季栃木大会準々決勝に進むが、佐野日大高校に敗退。翌1987年春季栃木大会は準決勝で足利工石井忠徳と投げ合って完封勝ち、決勝では高村祐を擁する前年の選抜準優勝校・宇都宮南高校に敗れたが関東大会出場権を得る[1]。大会では2回戦(初戦)で常総学院高校のエース・島田直也に抑えられ、完封負け。同年夏の栃木大会は準決勝で足利工の石井と再度投げ合うが、延長10回裏サヨナラ負けを喫し、ベスト4で敗退した。

卒業後は日本大学経済学部へ進学し[2]硬式野球部に入部。当時の日大は東都大学野球リーグ二部に沈んでいたが、1989年秋季リーグで6勝を挙げ、二部優勝。入替戦で國學院大に2連投勝利で降し、一部復帰を果たす。その後も優勝には届かなかったが投の主軸として活躍。1990年ワールドカップ日本代表にも選出された。この年の秋も入替戦では完封、完投を含む3連投で残留に貢献。一部リーグ通算27試合登板、8勝13敗、防御率2.12、148奪三振、二部では12勝2敗。150km/hのストレートを武器に同リーグの若田部健一駒澤大)とともにドラフトの目玉候補とされていたが、大学4年時に投球の際に右肘を骨折する重傷を負う。一時は選手生命も危惧されたが、回復すると判断した中日ドラゴンズより、1991年ドラフト会議にて東北福祉大のエース斎藤隆の外れ1位指名を受け、入団。大学の1学年後輩に門奈哲寛、プロでも同僚となった渡邉博幸、同郷の真中満がいた。
プロ入り後

プロ1年目の1992年には肘にサファイアを埋め込む大手術を行った。

2年目の1993年に一軍登板を達成してから数年間は肘の状態を考慮し、ショートリリーフ専門であった。1995年以降はチーム事情もあり主に先発として一軍の登板機会を得る。先発としては完投能力はあるものの、投球が良い時と悪い時の差が激しく、思うような成績を残せない時期が続いた。同姓の落合博満が現役選手として中日に在籍していた時期は、基本的にスコアボード表記は、英二を「落合英」、博満を単に「落合」と表記された。しかし、一時期の東京ドームで博満が「落合博」となっていたことがある他、読売新聞など一部の活字メディアでは、博満に「落合博」を使用していた。

1998年に就任した大学時代の先輩である投手コーチの宮田征典の意向もあり、抑えを務めていた宣銅烈に繋ぐ中継ぎとして固定されたことが転機となる。弓長起浩に次ぐリーグ2位の55試合に登板し、防御率2.82、4勝5敗5セーブの成績を挙げ、リリーフポイント19.70で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。

1999年は、プロ8年目で初めてオールスターゲームに選出された[3]。この年はサムソン・リー岩瀬仁紀らと強力な中継ぎ陣を形成し、リーグ優勝に大きく貢献した。同年の福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは3試合に登板、第2戦では9回から川上憲伸をリリーフし、勝利に貢献した。オフの12月24日に2900万円増の年俸8600万円で契約を更改した[4]

2000年は、キャンプ中に右肩痛を起こし開幕2軍スタートとなった[5]。3月18日の時点では5月に1軍昇格を目指し、調整していることが報道された[5]が、4月中旬と5月中旬に痛みが再発し[6]調整が遅れたため、前半戦は7月19日の対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)に登板しただけであった[7]。最終的に21試合に登板し防御率2.75であった。

2001年、5月10日の対ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤドーム)で2年ぶりにセーブを挙げた[8]。5試合連続で失点したこともあった[9]が、最終的に45試合に登板し、防御率1.73をマークした。

2002年、3月30日の開幕戦[10]、対ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤドーム)で登板した際に左脇腹を痛め、翌日登録抹消された[11]。この年は37試合に登板し、1勝2敗1セーブ、防御率2.62であった[10]。オフの12月16日に300万円減の年俸8500万円で契約を更改した[10]

2003年、シーズン中の8月3日にFA権を取得した[12]。この年は自己最多の61試合に登板し、7勝0敗1セーブ、防御率1.77の成績を残した。FA権を行使せずに3年4億円で残留した[13][14]

落合博満が監督に就任した2004年は、3月に右肩に違和感を覚えた[15]ことにより、開幕2軍スタートとなった。4月21日に出場選手登録され、翌日の対阪神タイガース戦(ナゴヤドーム)でシーズン初登板した[16]。この年も中継ぎ陣の柱として活躍。不調の岩瀬に代わって抑えを務めた時期もあった。9月26日には7年ぶりに先発登板し、5回無失点で勝利に貢献[17]。同年の西武ライオンズとの日本シリーズでも3試合に中継ぎとして登板している。

2005年、前年オフに首脳陣から先発転向を命じられ、先発に転向した[18][19]。8年ぶりに開幕ローテーションに入り[20]、5月5日の対ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤドーム)でシーズン初勝利を挙げた[21]。しかし、翌週のセ・パ交流戦で対西武ライオンズ戦(インボイス西武ドーム)では4回4失点と結果を残せず[22]、中継ぎに再転向した。

2006年はプロ野球の投球フォームのルール改正により二段モーションであった落合も、投球フォーム改造を余儀なくされるなどの問題から開幕は二軍で迎え、一軍に上がっても結果は出せなかった。チームがリーグ優勝した際には一軍にいなかったが、落合をずっと支えてきた永田トレーナーが監督胴上げの瞬間、落合英二の背番号「26」のプレートを掲げ万歳するシーンが見られた。永田トレーナー以外にも、落合を慕っていた荒木雅博朝倉健太も帽子の裏に「26」と書いて出場していたという。同年は6月26日に1軍昇格した[23]ものの、最終的に5試合の登板にとどまり[24]、現役を引退した[25]

1球勝利投手、1球セーブ投手、1球ホールド、1球敗戦投手、0球登板(交代を告げられてマウンドに上がってから雨天中断、その後降板[26])という珍記録を持っている。
現役引退後

2007年から2009年まで3年間、中部日本放送(CBC)の野球解説者等を務めた。同局では東海地方ローカルのスポーツ情報番組『サンデードラゴンズ』内で「落合英二ブルブルの輪」というコーナーも担当していた。解説初年度は「ネット裏解説」という扱いでの解説を務めることが多かった[27]が、その後は普通に実況席で解説をしていた。ただし、全国ネットの場合は2年目以降でも「ネット裏解説」として出演する場合があった。「ネット裏解説」の時は、観客に話しかけられることがあったという。ドラゴンズの選手からは「英二さんがすぐ見えるところにいるのが変な感じ」と言われたという。

ドラゴンズ時代に同僚であった宣銅烈が監督を務めていた縁で、韓国のサムスン・ライオンズでコーチ研修を受けた。2010年からサムスンの投手コーチに就任。落合コーチ就任後、サムスン・ライオンズのチーム防御率は大幅に改善し、2011年からは投手起用の全権を任され、その手腕は高く評価された。2012年シーズン、サムスンは2年連続韓国シリーズ優勝を達成し、同年のアジアシリーズ終了後に退団[28] 。教え子の中には、後に日本プロ野球において阪神タイガースやメジャーリーグで活躍する呉昇桓がいた。

2013年から2014年まで2年間は、野球解説者に復帰。本数契約でCBC・東海ラジオテレビ愛知に出演する。また、中日スポーツの野球評論家も務める。2014年10月16日に千葉ロッテマリーンズの一軍投手コーチに就任することが発表された[29]


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